2016年8月24日水曜日

弐湖の國映画祭 松村克弥監督「天心」上映後の交流会とロケ地めぐりツアー(2016年8月20、21日)

竹中直人が岡倉天心、中村獅童が横山大観、平山浩行が菱田春草を演じた映画「天心」という映画があることを知ってこの2年くらい気にしていた。茨城県行方市で開催された弐湖の國映画祭で松村克弥監督の舞台トークを聞き、交流会でワインを飲みながらいくつか質問させていただき、翌日はロケ地めぐりで役者さんたちと演出をめぐってやりとりされた様子を聞かせていただいた。こんな贅沢な映画祭は珍しい。今年は上野の博物館で日本の洋画発展の功労者である黒田清輝の回顧展も観ていたので、この映画はとりわけ感じるものがあった。
 
江戸時代まで武家社会の権力者をパトロンとして発展してきた邦画界が明治の文明開化の波に飲み込まれそうになった混乱期が時代背景となっている。絵画の革新という目的をもって洋画の方向を目指す人たちもいれば、邦画そのものの革新をめざす人たちもいる。そういう時代にお雇い外人教師のフェノロサに啓発された岡倉天心がいて、その天心の才能を慕う邦画界の綺羅星たちが五浦に結集する。まるで水滸伝みたいな話に引き込まれた
 
日本美術院を追われた岡倉天心を慕う横山大観が「屈原」の絵を描いたことは聞き知っていた。横山大観の描いた「屈原」という絵に思い入れがあることについてはしばらく前にブログに書いている。この映画で狩野芳崖をフェノロサ先生と岡倉天心が訪ねる場面、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山の4人の高弟とその家族を引き連れて天心先生が茨城県五浦にこもる場面、哲学者九鬼周造にゆかりのある場面など印象に残った。映画祭初日の夕べの交流会でこの素晴らしいイベントを主催された湖魔女委員会の皆さんと参加人たちとで盛り上がった。

映画祭2日目のロケ地めぐりツアーも面白かった。映画の登場人物である横山大観、下村観山、木村武山にゆかりのある石碑がある西蓮寺を訪れた。当初参加を予定されていた五藤利弘監督の「花蓮~かれん~」のロケ地でもある。この映画のワンシーンとして登場した木の洞で松村監督他の皆さんが三浦貴大が演じたレンコン農家の青年のポーズを真似て記念撮影をした。

その次に行方市の大塲家郷士屋敷を訪れた。中村獅童が演じた横山大観の家として映画に登場した家だ。東京美術学校を追われた天心先生を楚の詩人・宰相であった屈原に見立てた大観の絵が登場した部屋を観た後で、大観が家族と食事をしていた場面に使われた小部屋も特別に見せていただくことができた。熱の入った松村監督が身振り手振りで演出当時の様子を説明された。すごい迫力だった。






 
 

 

弐湖の國映画祭初日 五藤利弘監督「花蓮~かれん~」上映 (2016年8月20日)

茨城県行方市で弐湖の國映画祭が8月20日と21日に開催されたので友人の青木君と出かけた。五藤利弘監督「花蓮~かれん~」が上映されたので観に行った。時間に余裕をもって出かけたつもりだったが豪雨の中のドライブとなった。五藤利弘監督の舞台トークに間に合わなかったのは残念だった。五藤監督は新作の編集作業のためにすぐ帰られたが、その前に「花蓮~かれん~」でヒロインのお祖父さんの役を演じた飯島大介さんにもご挨拶して、記念撮影に納まることができた。

1日目が終わっての夕方の交流会でAさんという方と同じテーブルになって話をしているとこの日上映された五藤利弘監督「花蓮~かれん~」にとても詳しい。それもそのはず原作を読んで映画化に奔走された仕掛け人の方だった。この方もわたしがブログに書いたいくつかのノートを読んでいらしたので話が弾んだ。その晩の湖魔女委員会の皆さんとの慰労会でも一緒に盛り上がった。原作と映画の違いについていくつか重要な点について示唆をいただいた。これまでカレンと陽子の役割についてFB友達のTさんと意見を戦わせたことがあるが、映画化仕掛け人と脚本を担当された五藤監督の間でも見解の相違があったことを知って面白かった。この映画が好きな人はみなそれぞれに「自分の花蓮物語」を作り上げようと試みているのだと感じた。


この集合写真には監督の新作「レミングスの夏」ののぼりと刷り上がったばかりの映画チラシが写っている。この最新のチラシの裏ページには7月の取手の現場にお手伝いに行き撮影したばかりのスチール写真が17枚使われているのでうれしい。スクリーンで映画「花蓮~かれん~」を再度観たこと、交流会で「花蓮」映画化に奔走された方から話が聞けたこと、翌日に主要なロケ地である西蓮寺を再訪できたこと、数名の「花蓮」ファンの人たちと感想を交換したこと等々で実りの多い行方市訪問だった。

 

 

2016年8月14日日曜日

魂が浮遊する世界 五藤利弘監督映画「ゆめのかよいじ」と栃尾の石積み

須永朝彦著「日本幻想文学史」(平凡社ライブラリー)という本の中に「夢の通い路ー王朝物語の再生」という章がある。大正期以降に芥川、谷崎、三島など数多くの作家が古典である様々な王朝物語に取材する形で作品を書いていることが紹介されている。「夢」を媒介とした耽美的な世界であり、「生霊が跋扈する蠱惑的」な世界でもある。五藤監督の映画「ゆめのかよいじ」は新潟県長岡市にある栃尾の風習、「石積み」を背景にした作品だが、ローカル色豊かながら古典の伝統をきちんと踏まえた作品でもある。長岡市の栃尾を流れる刈谷田川の河原で平たい石を卒塔婆のように積みあげるのが「石積み」だ。この川はこちら岸の世界とあちら岸の世界を隔てるものの象徴だ。わたしは刈谷田川のほとりで生まれたこともあるが、この映画にはまってしまった。

栃尾の石積みの風習は8月7日に行われる。死者が此方の岸の世界から彼岸の世界へと向かう時に、親より早く亡くなった子供たちの霊は三途の川を渡ることを許されずに石を積む作業を命じられる。子供たちはやがて救済されるまで死者でも生者でもない状態で薄明の世界を浮遊するのだろうか。ウィキペディアには以下のような説明がある。


「三途川の賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが親の供養のために積み石(ケアン)による塔の完成をめざすが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信がある。子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済される。」

浮遊する子供たちの霊がお盆で親たちの住む此の世界に戻っている間に、石積みの作業を肩代わりするのが栃尾の行事の意味だろう。映画「ゆめのかよいじ」 は浮遊する人と現在を生きている人との交流をテーマとして、長岡市の山河を舞台に撮影された。緑の山河が繰り返し出てくる美しい映像によってこの「彼岸」のイメージが見事に表現されている。「人を想う気持ち」というのはラジオの周波数のようなものだ。この映画のヒロインは亡くなった父と過ごした時間を思い出すたびに父の好きだったピアノの曲を想い出す。このヒロインからとても強く発信されている「想い」が60年前のある出来事につながって行く物語だ。いろいろ考えながらこの映画を見直すとまた違った印象を持つことになりそうだ。