2023年6月21日水曜日

五藤利弘監督 映画「日光物語」を鑑賞するためのいくつかの視点

郷里長岡出身の五藤利弘監督の新作「日光物語」が、昨年の地元日光市での完成披露上映に続き、コロナ禍による規制もなくなった現在東京都写真美術館で上映され好評である。617日の初日は広いホールがほぼ満席だった。元AKB48の武藤十夢とスネオヘアーのW主演。武藤十夢は五藤監督「おかあさんの被爆ピアノ」でも主演している。前主演作品の被爆という重いテーマから離れたせいだと思われるが、「日光物語」では活き活きした表情がとても魅力的である。五藤監督の「レミングスの夏」でも脇役で出演していたスネオヘアーは「寅さん」映画を意識しての大熱演だが、日光での地元完成上映で観た時に比べて、2度目となった今回の方が圧倒的に面白く感じた。話の展開が気になった初回と、細部を観る余裕のある2度目の違いだろう。するめのように噛むほどに味が出てくる感じが楽しい。

日光輪王寺のご門跡の役で出演され、その撮影からしばらくして逝去された宝田明の遺作でもある。この人の主演作品が数ある中でも、わたしはTVドラマ「平四郎危機一髪」の大ファンだった。この天下の名優がスクリーンに登場しただけで漂う重厚感と、軽妙な演技のコントラストが流石である。「ミセス・ノイズィー」でのW主演、「東京組曲2020」でも印象的な演技が光った大高洋子も出演している。五藤組の常連で長岡にご縁の深いベテラン大桃美代子もご出演。大林宣彦監督と脚本でタッグを組んで数多くの名作を世に出した内藤忠司監督も味わい深い洒脱な演技で出演など話題満載の作品である。

この映画の紹介では「人情喜劇」としての側面が強調されているが、終盤に向けての謎解きの辺りで郷里長岡を舞台にした「ゆめのかよいじ」風になるところは本質的に抒情作品の作家である五藤監督らしさが良く出た作品といえる。五藤作品で一番好きな「ゆめのかよいじ」(2013年公開)は石橋杏奈がW主演した名作である。印象に残るのが長岡市の栃尾を流れる刈谷田川の河原で平たい石を卒塔婆のように積みあげる「石積み」が登場する映像だ。こちら岸の世界とあちら岸の世界を隔てるものの象徴として川が登場する。この石積みの風習は三途の川の伝説として東日本に広く伝わるものだ。親より早く死んだ子供たちは向こう岸に渡らせてもらえず、親が来る日まで川原で石を積むことが義務つけられる。そういう子供たちの霊も、お盆には親元に戻ってくる。石積みの義務を忘れてゆっくりできるように、その子たちに代わって地元の人が石を積む哀しくてやさしい風習である。彼岸と此岸の境界で強い思いを抱き続ける主人公を描いた作品としては溝口健二監督の「雨月物語」(1953年)を連想させる作品でもある。

大切な人との離別を経験し、嘆き悲しんだ後で時間や世界を超えて再会する物語は世界の各地に存在している。日本に住みつき小泉八雲と名乗ったラフカディオ・ハーンも同じように死者の魂にこだわった作品を書いた。この人がアメリカで新聞記者をしていた時代に訪米していた日本の外交官から古事記のイザナギ・イザナミの物語を教えてもらい、自身の郷里であるギリシャのオルフェウス神話との共通点を見出したことはこのテーマの普遍性を象徴するものだ。内田樹は「もういちど村上春樹にご用心」という傑作評論集の中で、雨月物語に言及しながら「突然異界に去る形で失われた肉親や友人や恋人と再会し、きちんとした服喪の儀礼をして死者の国に送り直す」ことについて論じている。

このようにこれまでの五藤監督作品の底流に流れるものが鎮魂と慰霊であることを踏まえると「日光物語」という人情喜劇の「大馬鹿もんと仲間たち」によるドタバタ騒ぎが違った様子に見えてくる。ヒロインの日光めぐりは幼い日の自分のために自らの心を封印していた母の魂を慰めるための「やり直しの通夜」であり、大騒ぎはそれを盛り上げる服喪の儀礼なのである。この作品を始めて観た時には唐突に感じたタンカ売の場面が低く呪文のようにも、読経の声のようにも聞こえてくる。「日光物語」と「男はつらいよ」シリーズとの関係については映画パンフレットの中で娯楽映画研究家の佐藤利明が「懐かしきプログラムピクチャーの匂い」という素晴らしい解説を書いている。

(文中敬称略)






2023年5月17日水曜日

三島有紀子監督 「東京組曲2020 Alone Together」

渋谷シアター・イメージフォーラムで「東京組曲2020 Alone Together」というちょっと不思議なすてきな映画を鑑賞した。週末の大都会は苦手なので平日の午前の上映。コロナ禍で生きている人々の生活を映したドキュメンタリーなのか、気鋭の俳優さんたちを起用しての新型のドラマなのか微妙に考えさせる映画だった。


三島有紀子監督の構想に沿って出演者を募集し、提出された大量の映像データの中から厳選された場面だけを編集するという手法のドキュメンタリーという解説である。この上映にはさらに仕掛けがあって、2本立ての形で同じくコロナ禍の生活と感情をテーマにした短編映画が上映されていた。主演は渋い円熟味の佐藤浩市。その短いドラマから、ドキュメンタリー映画「東京組曲2020」への流れがとても自然で、様々な出演者の場面へと続く。

三島監督はコロナ禍のある日の明け方に人が嗚咽する声が聴こえたことがきっかけで、この作品を構想したそうである。上映後に三島監督とやはりコロナ禍をテーマに作品を作られた宮崎信恵監督の対談があり、興味深い解説をお聞きした。対談後に会場の観客との質疑応答の時間となったが、誰も手を挙げる勇気がない。前から4列目に座っていたわたしに三島監督から声がかかった。「そちらの方、ちょうど目が合いましたので如何ですか?」。

「今日は友人の大高岳彦さんと奥様で俳優の洋子さんの共演された作品が上映されると聞いて観にきました。とても面白かったです。出演者の皆さんの私生活をのぞいてしまうような迫力があってドキドキしました。同時に、出演されているプロの役者さんたちが自撮りで映像を作られたとすると、演出の要素もあるだろうと思いました。たくさんの場面の中には偶然切り取られたような印象の映像もあれば、練り込まれたドラマのような印象を受けた映像もありました。バラバラの映像を1本の作品としてまとめられた監督としては、そのバランスについてどう感じていますか?」。

三島監督の回答は以下のような趣旨だった。「コロナ禍での記録としての映画を構想した段階ではできるだけそのままのドキュメンタリー素材を集めたいと考えました。プライバシーへの配慮の面からも、自然な感情を表現できるかという点からも考えた結果、プロの役者さんたちに出演を打診しました。多くの人に声をかけて50人くらいの人たちから応募がありました。その中から自分のイメージに近い映像を選び、編集する作業でした。プロの役者さんたちですから「見せる」ことは当然意識しているでしょう。そのうえで映像がわたしの意図に沿ったものかどうかを基準にしてまとめる作業でした」。

とても興味深い作品である。添付はわたしが撮影した
の舞台トークの写真。映画紹介の投稿への添付について「撮影OKです。皆さん映画の宣伝お願いします」ということでした。




2018年7月28日土曜日

黒木和雄監督「祭りの準備」の上映会

昨晩の小町の研究会で主催者の木村さんの解説をお聞きしながら伝説の映画を鑑賞する贅沢な時間を過ごした。70年代の映画は学生時代に名画座で観たものがほとんど。90年代以降に海外で過ごしている時期に、映画がDVD化される時代がきて心に残る映画は自分の手元におけるようになった。DVDのコレクションというのも不思議なもので、自宅のTVでいつも観るわけでもない。好きな映画のパンフを持っていたいのと同じだ。

久しぶりにこの映画を観て、新たに気が付いたことがあった。主人公の祖父を演じた浜村純が熱演している。この祖父が時間を過ごす網小屋が登場する前半の場面で天井から釣り下がる鉤が大写しされている。この映画にとって重要な小道具だ。華麗な女優陣の中でも原知佐子さん演じた仕立て屋のお母さんが印象的だ。足の悪い息子さんのエピソードがいくつも重要な場面として登場するので大切な故郷の風景の一部なのかと思っていた。この人が映画の主題と深く関わっていることが終盤の空想場面で描かれる。圧倒的だ。名優原田芳雄がお向かいの家の次男として全編を通して登場する。その役名が「中島利広」で、脚本の中島丈博氏の名前と微妙に違うだけのことにようやく気がついた。半自伝的作品と言われるこの作品で、脚本家が描こうとしたのは東京に旅立つ脚本家志望の盾男君だけではなかったようだ。空想の中で故郷に残って不器用に暮らしたであろう自分の物語。どちらも描きたかったはずだ。面白い。
 
 

2018年7月24日火曜日

山崎達璽監督「宮城野」

鎌倉駅前の会場で山崎監督のトーク付きの上映会があり鑑賞。映像の美しさと緊張感が印象的だった。上映後トークの中で主演女優の毬谷友子さんが原作の矢代静一氏の娘さんであることを教わった。映画化にあたっては山崎監督の新解釈が混じっているそうだ。興味が募り、アマゾンで原作本をポチってみた。

原作を読んでみると宮城野という薄幸の女性の物語。30頁ほどの短い戯曲はヒロイン宮城野のやさしさと儚さを描いている。ゆったりした雰囲気があって現在の幸薄い境遇についても、どこかしたたかな感じのするヒロインの物語。生きることへの倦怠からなのか他人のために自分を犠牲とすることも厭わないヒロイン像が男女二人の会話劇から浮かんでくる。海外の上映会でこのヒロインの死をキリスト教的な献身ととらえる見方があったそうだ。

山崎監督の映画版は宮城野というヒロインの造形についてはほぼ原作通り。決定的に違うのは原作では脇役にすぎない矢太郎の造形である。半沢直樹で大ブレイクする前の片岡愛之助演じる矢太郎の描き方が重層的で面白い。ひたすらな修行者であり、師匠の後釜を狙う野心家でもあり、ヒロインにすがる弱い男でもあり、ずるい薄情男でもあるという複雑な役がとても魅力的な作品だ。

映像の美しさが印象的だった。赤と青が基調となった画面のところどころに書き割りの場面が登場し、心中物語的な様式美が強調される。結果的に女性一人が血にまみれて死んでいく話としては衣笠貞之助監督で映画化もされた芥川龍之介「袈裟と盛遠」の話を連想した。こちらは高貴な身分のヒロインが、自分を慕うあまりに夫の殺害を企てた男の刃の前に自身を投げ出す物語。緊張感と倦怠感が入り混じる重層の構成に共通するものがある。

上映後の監督トークの後で質疑応答の時間となった。「監督としてはヒロインの宮城野ととても丁寧に描かれている脇役の矢太郎とどちらに思い入れがありますか?」 と聞いてみた。「自分としては宮城野も、矢太郎も面白い。さらには師匠である写楽にも興味を持った。そういう3つの要素のそれぞれを描いている。そのどの部分に感情移入するかは観る人ごとに違っていて良いと思う」との回答。なるほど。こういう上映会が地元で開催されると楽しい。




 

 

 
 
 

 
 

 
 
 
 

2018年3月21日水曜日

キルギス映画 アクタン・アリム・クバト監督「馬を放つ」

岩波ホールで上映中のキルギス映画を観た。一昨年の中央アジア映画祭で外語大キャンパスで上映された「明りを灯す人」を観てその映像の美しさに感激した記憶はまだ新しい。同じ監督の作品が2017年に公開されてベルリン国際映画祭、アカデミー賞外国語映画賞などで高い評価を得たというニュースをフェースブックで知り、日本での劇場公開を楽しみにしていた。わたしがこの国に住んだのは2007年の秋から2011年の夏までだが、90年代の後半には電力開発のプロジェクトのモニタリングと新規案件の準備のために何度も訪れた国だ。
 
この新作では山に囲まれたキルギスの風景も素晴らしいが、月の夜に馬に乗って疾走する主人公の姿がまるで神話のような雰囲気を感じさせる。騎馬民族としての伝統を持つ人々が住むキルギス共和国は天山山脈の麓に位置するシルクロードの国だ。8世紀に唐とイスラムが中央アジアの覇権をめぐって戦って以来、イスラム圏に属していたが、やがてロシア帝国の時代となる。20世紀のロシア革命の後ではソビエトを構成する自治共和国の一つとなった。やがて東西冷戦が終結し、1991年に独立国となった。国土の大部分が山と湖に囲まれてとても美しい国だが、厳しい冬から春先までの生活は容易ではない。
 
この映画の題名が象徴的だ。主人公は馬が大好きで村人たちからケンタウロスと呼ばれている。ギリシャ神話のケンタウロスは半人半馬の姿をしている者たちの名前だ。ウィキペディアを調べてみると、ケンタウロスの起源は東方の騎馬民族であるスキタイ人と戦ったギリシア人が、彼らを怪物視したものだという説があるそうだ。中央ユーラシアの草原を馬に乗って自由に駆け回り、西側の征服者たちと勇敢に戦ったのが騎馬民族であった自分たちの先祖であるという誇りがこの映画のモチーフになっているのは間違いなさそうだ。神話の時代までさかのぼらなくても古代マケドニアのアレキサンダー大王が中央アジア経由でインド遠征を試みている。キルギス共和国が位置するフェルガナ地方は名馬の産地として知られてきた歴史がある。
 
この映画では、月夜に金持ちの牧場に忍び込んでは、名馬を疾走させていた主人公がやがて捕まってしまう。遠い親戚で今は成金でもある馬主に「何故だ?」と問われて、やがて涙とともに語る場面が凄い。その昔、人々が誇り高く暮らしていた時代に、人々は馬の守護神であるカンバルアータを怒らせてしまい、守護神は消えてしまった。それ以来幸福も繁栄も消えてしまった。その守護神に再臨してもらうためには月夜に駿馬に乗って神様を探しに行かなければならないのだと主人公は自分の行動の理由を語る。
 
この主人公の奇妙な行動の理由となった守護神の名前を、主人公の語りの中で聞いた時にびっくりした。わたしが開発関係の仕事でこの国と関わるようになった時の大型水力発電所の名前がカンバルアータ第一、第二発電所だ。この国は電力供給の9割を水力に頼っている。この国全体の発電能力が360万kwだが、そのかなりの部分が老朽化し、修繕を必要としている。新規電源の開発はこの国にとっては課題であり、将来への希望でもある。他方で旧ソビエトが崩壊以前から、維持費も新規建設資金も滞りがちだったのでカンバルアータの第一 (120万kw)、第二 (40万kw)を含めて電源開発は進んでいない。
 
大型水力発電所の新設がこの国の経済開発にとっての希望であり、夢でありながら、遅々として進まず、人々は前作の「明りを灯す人」に描かれたような電力不足の不自由な生活をしているのが現状だ。2005年の春に革命が起きた時も、2010年の春に政変が起きた時も、厳しい冬の間の人々の生活の苦しさ、経済開発の遅れへの不満、政権の汚職が人々を決起させた要因となっていた。この辺りの事情を知らないと主人公の絶望の理由が、映画を観る人にはうまく伝わらないかも知れない。
 
同じ監督による「馬を放つ」と「明りを灯す人」に共通する哀しみと山々の美しさが圧倒的だ。とても印象の強い映画である。