長岡アジア映画祭実行委員会の菅野さんが地元にご縁のある様々な映画を選んで紹介されていることにいつも共感している。今回のイベントでは長岡出身の五藤利弘監督の映画「ゆめはるか」上映と舞台トークがあるそうなので観に行く予定にしている。五藤監督の脚本・監督により今年秋に公開予定の「レミングスの夏」の製作発表がいくつかの新聞で報じられたばかりなのでその話を聞かせていただくのも楽しみだ。もう一人長岡出身の東條政利監督が関わっている映画が上映されるのも楽しみにしている。東條監督は母校の同窓生の方で去年の暮れにお会いした。現在、救世軍の山室軍平という人をモデルにした映画を製作中の人だ。そのプロデューサーでもある山田火砂子監督はご自身の作品「筆子・その愛 天使のピアノ」を今回のイベントで3月5日に上映し、興業収入を東條監督の新作の製作費に充てるそうだ。長岡ご出身の二人の監督のますますのご活躍を応援したい。
2014年の夏に東京で五藤監督にお会いして以来、五藤監督作品のほとんどを観させていただき、感想をブログに書いてきた。故郷への想いと今を生きていくことの間に佇む人々の気持ちを描く作風が気に入っている。3月6日に上映される映画「ゆめはるか」では、同じような病気を抱える少女が3人登場し、それぞれに感情移入する形でヒロインが「死の淵めぐり」を経験する様子が描かれている。私ごとながら、2011年の東北大地震と津波の年に病気で死線を彷徨ったつれあいのことが重なって、この映画を冷静に眺めるのに苦労した。中央アジアにあるキルギスタンという国での駐在勤務を放りだして、半年ほど病人に付き添った経験を思い出したからだ。その頃に病気についての本を読み漁った。どういう症例も千差万別で、死の淵から生還するかどうかは偶然の結果にすぎないと思うようになった。
昨年退職して帰国してから、五藤監督の撮影現場や、霞ケ浦、富士山・河口湖での映画祭などに同行させていただいてブログに記事を書き続けている。人を想うことがきっかけとなって、こちら側と向こう側の世界の境界領域に彷徨いこむ人たちの物語が気になるからだ。五藤監督は子供の頃に黒澤映画に感動して映画の世界を志したそうだ。黒澤監督の代表作の一つである「羅生門」は芥川龍之介の「藪の中」を題材とした作品だが、事件の真相をめぐってこちら側の世界に残された者と死者たちとの間で交わされるコミュニケーションについての映画でもある。ラフカディオ・ハーンの「怪談」を映画化した小林正樹監督の作品でも、死者と生者の間のコミュニケーションが描かれている。溝口健二監督の「雨月物語」も、強い思いを抱き続けて漂う人々の心が描かれた。五藤監督が栃尾の棚田の風景を写した「モノクロームの少女」も、刈谷田川の石積みを登場させた「ゆめのかよいじ」も、亡父を偲んで自分のルーツ探しをするハーフの女性を描いた「花蓮~かれん~」も、今回上映の「ゆめはるか」もその点では同じ系列の作品である。
映画「ゆめのかよいじ」で印象に残るのが長岡市の栃尾を流れる刈谷田川の河原で平たい石を卒塔婆のように積みあげる「石積み」の風景だ。石積みの風習は三途の川の伝説として東日本に広く伝わっている。親より早く死んだ子は向こう岸に渡らせてもらえず、河原で石を積む。そういう子供たちの霊がお盆で親元に戻る間、石積みの義務を忘れてゆっくりできるように、地元の人が代わりに石を積むのである。わたしは栃尾で生まれ、隣の見附で育ち、長岡の学校に通ったので刈谷田川には思い入れがある。母の生家があったのは映画の風景となった場所より下流の、見附との境に位置する鄙びた村である。そこに「灯篭流し」という風習がある。お盆に彼岸からやってくる祖霊を家にお迎えした後で、迷わずに帰っていただくために灯篭を点けて川に流す。「ゆめのかよいじ」はそういう土地の雰囲気を伝えている。生まれた土地だったり、大切な人をしのぶ場所だったりという理由で、ある風景が自分にとって特別な意味を持つことがある。そういう場所がスクリーンに登場し、風の吹いている感じや色彩のイメージを目にすることが出来るのは素敵なことだと思う。そういう映画を五藤監督に撮り続けてほしいのでこれからも応援していこうと思っている。
2014年の夏に東京で五藤監督にお会いして以来、五藤監督作品のほとんどを観させていただき、感想をブログに書いてきた。故郷への想いと今を生きていくことの間に佇む人々の気持ちを描く作風が気に入っている。3月6日に上映される映画「ゆめはるか」では、同じような病気を抱える少女が3人登場し、それぞれに感情移入する形でヒロインが「死の淵めぐり」を経験する様子が描かれている。私ごとながら、2011年の東北大地震と津波の年に病気で死線を彷徨ったつれあいのことが重なって、この映画を冷静に眺めるのに苦労した。中央アジアにあるキルギスタンという国での駐在勤務を放りだして、半年ほど病人に付き添った経験を思い出したからだ。その頃に病気についての本を読み漁った。どういう症例も千差万別で、死の淵から生還するかどうかは偶然の結果にすぎないと思うようになった。
昨年退職して帰国してから、五藤監督の撮影現場や、霞ケ浦、富士山・河口湖での映画祭などに同行させていただいてブログに記事を書き続けている。人を想うことがきっかけとなって、こちら側と向こう側の世界の境界領域に彷徨いこむ人たちの物語が気になるからだ。五藤監督は子供の頃に黒澤映画に感動して映画の世界を志したそうだ。黒澤監督の代表作の一つである「羅生門」は芥川龍之介の「藪の中」を題材とした作品だが、事件の真相をめぐってこちら側の世界に残された者と死者たちとの間で交わされるコミュニケーションについての映画でもある。ラフカディオ・ハーンの「怪談」を映画化した小林正樹監督の作品でも、死者と生者の間のコミュニケーションが描かれている。溝口健二監督の「雨月物語」も、強い思いを抱き続けて漂う人々の心が描かれた。五藤監督が栃尾の棚田の風景を写した「モノクロームの少女」も、刈谷田川の石積みを登場させた「ゆめのかよいじ」も、亡父を偲んで自分のルーツ探しをするハーフの女性を描いた「花蓮~かれん~」も、今回上映の「ゆめはるか」もその点では同じ系列の作品である。
映画「ゆめのかよいじ」で印象に残るのが長岡市の栃尾を流れる刈谷田川の河原で平たい石を卒塔婆のように積みあげる「石積み」の風景だ。石積みの風習は三途の川の伝説として東日本に広く伝わっている。親より早く死んだ子は向こう岸に渡らせてもらえず、河原で石を積む。そういう子供たちの霊がお盆で親元に戻る間、石積みの義務を忘れてゆっくりできるように、地元の人が代わりに石を積むのである。わたしは栃尾で生まれ、隣の見附で育ち、長岡の学校に通ったので刈谷田川には思い入れがある。母の生家があったのは映画の風景となった場所より下流の、見附との境に位置する鄙びた村である。そこに「灯篭流し」という風習がある。お盆に彼岸からやってくる祖霊を家にお迎えした後で、迷わずに帰っていただくために灯篭を点けて川に流す。「ゆめのかよいじ」はそういう土地の雰囲気を伝えている。生まれた土地だったり、大切な人をしのぶ場所だったりという理由で、ある風景が自分にとって特別な意味を持つことがある。そういう場所がスクリーンに登場し、風の吹いている感じや色彩のイメージを目にすることが出来るのは素敵なことだと思う。そういう映画を五藤監督に撮り続けてほしいのでこれからも応援していこうと思っている。