五藤利弘監督の映画「花蓮~かれん~」が、12月17日より年明けまで土浦セントラルシネマズで再公開される予定となっている。同館で昨年暮れから今年4月までロングラン公開された映画である。2014年に長岡アジア映画祭、2015年に池袋、大阪で劇場公開、同年11月にロケ地行方市で凱旋上映、2016年8月の行方市「弍湖の國」映画祭でも上映されるなど根強い人気が続いている。
わたしは「モノクロームの少女」、「ゆめのかよいじ」、「スターティング・オーヴァー」(上京篇)の栃尾三部作以来の五藤監督ファンだが、「花蓮~かれん~」以来、五藤監督の茨城映画にはまっている。先日、FB仲間で栃尾在住のTさんに、「何で茨城なのか?」と聞かれたので考えてみた。わたしは栃尾の生まれだが、母の他界により生後数か月で隣の土地に移っている。その後は東京を始めとして、様々な国を転々として生きてきた。この映画でヒロインが国境を越えて血のつながりについて考え、日本まで自分探しの旅に出て、恋をして、やがて自分の居場所を見つけるという物語に感情移入しているのだと思う。
キタキマユが演じた日系タイ人留学生のヒロインの名前がこの映画のタイトル「花蓮~かれん~」となっている。ヒロインの父は霞ケ浦出身で、母は熱帯に広く分布する「睡蓮」を国花とするタイの人だ。ヒロインは父を探すために、留学生として日本にやって来る。この映画では異国からやってきたヒロインのけなげさが際立っているが、実はもう一人のヒロインが登場する。日出ずる国に生まれた「陽子」は蓮で名高い茨城県霞ケ浦の人だ。東京で就職したが、地元に戻ってきたしっかりもの風のこの娘が元カレとの結婚を望む気持ちは打算だろうか? 純情だろうか?微妙に揺れ動く陽子役を演じた浦井なおの抑えた表情が素晴らしい。
前述のTさんは書いた。「浦井さんが、花蓮と青年を見つめる心の内を、苦しさを、そしてどうして私ではダメなのかを、素直に表現している」。わたしの見方もぶつけてみた。「高校時代につき合っていた二人の再会はほろ苦くて、懐かしい。二人とも東京の大学に行ったのにいつか遠くなり、男は故郷に帰って就職した。娘は東京での人生を夢見た。やがて都会に疲れた娘は帰ってくる。二人の気持ちが再燃する。娘は結婚を意識する。男はためらう。結婚って何だろう? 嫌いではないが、迷わずにはいられない」。三浦貴大が好演した主人公の若者の気持ちをそういう風に感じた。Tさんから一刀両断のコメントが返ってきた。「それでも純な想いに変わりはありません。私自身の数十年前の気持ちを思い出しました。」。このコメントは深い。年月が流れても、いろいろなことがあったとしても純な気持ちは変わらない。そういうこともある。
三浦貴大演じる主人公の若者の気持ちがこの二人の女性の間で揺れ動くところもこの映画の見どころだ。若者の怒ったような目つきと口元が良い。この若者が二人の違ったタイプのヒロインの間で微妙に揺れる恋物語はとても面白い。この霞ケ浦の「怒れる若者」は何が不満なのだろう? 地元の会社勤めだがレンコン農家の両親の老いを感じ、この先のことを考えずにはいられない。3人の若者の想いのぶつかり合いを縦糸にしながら、親子の関係、地元で生きること、異国で生きることなど様々な横糸がからんだ味わい深い映画となった。霞ケ浦の蓮田の美しい風景が印象的だ。
もう一つこの映画を見て印象に残ることがある。よその国から何らかの事情で日本にやってきた人々の目に、日本という国がどう映るのだろうかという点だ。移民・難民という現代的なテーマを扱った映画とも言えそうだ。この映画には原作本がある。日本のアジア地域への経済進出で海外に出た男たちが現地に残してきた子供たち。貧困からの脱出を夢見て日本に出稼ぎにくる娘たち。スナックの会話の場面、不法滞在で警察に摘発される場面には緊迫感がある。重い話にもかかわらず「花蓮」という名を持つヒロインの存在が映画の印象を清々しいものにした。途上国から留学してくる苦学生の中には祖国にプライドを持ち、今は貧しい祖国の発展に尽くしたいと思っている人は多い。彼らはそれぞれの国のエリートだから差別には敏感だ。この映画でヒロインは「自分の場所」で生きていくことを選ぶことになる。
この映画の終わり近くに、紙のランタンを夜空に飛ばす場面が登場する。ヒロインの故郷であるタイで旧暦の12月の満月の夕べに行われるロイクラトン祭りにちなんだものだ。コムローイは紙でできたランタンのことで、ろうそくに火をつけると小さな熱気球となって夜空に舞い上がる。クラトンは灯篭のことで、灯篭流しも行われる。その年の収穫に感謝し、恵みをもたらしてくれた精霊に感謝すると共に、その一年の罪や汚れを水に流すという意味があるようだ。チェンマイのお祭りでは数千のコムローイが夜空に舞うそうだが、この映画では一つだけのコムローイが夜空に漂っている。日本に父を探しにきたヒロインの孤独を象徴する場面だ。
この映画の二人のヒロインがどちらもけなげで魅力的だ。それぞれを霞ケ浦の「蓮の花」の精と、熱帯の国タイの国花である「睡蓮の花」の精と考えてみても面白い。蓮を国花としている国にはインド、ベトナムがあり、睡蓮はエジプト、タイ、バングラデシュ、スリランカで国花とされている。蓮は葉や花が水面から立ち上がるが、睡蓮は、葉も花も水面に浮かんでいる。睡蓮を水蓮と書くと思っている人もいるが、辞書を引くと睡蓮が正しい。フランスの画家モネが睡蓮の池を題材に、たくさん絵を描いたことはよく知られている。日本にも睡蓮の自生種があり、ヒツジグサと呼ばれる。洋の東西に分布している花だ。日本では蓮は清らかな白い花を咲かす辛抱と清浄の象徴だ。山田洋次監督「男はつらいよ」で寅さんは「泥に落ちても根のある奴は、いつか蓮の花と咲く」と歌った。
神話を題材にすることを得意とした英国の画家ウォーターハウスは美少年ヒュラスが泉の精であるニンフたちに池の底へ連れて行かれる場面の絵を描いている。ここでは睡蓮は若者を水底へ連れて行く妖艶な美女の象徴だ。ギリシャ神話でヒュラスはヘラクレスの従者だ。ヒュラスが近くの泉に水を汲みに行くと、泉のニンフたちは美しい若者の手を取って水底に引き込む。この若者は水底の国でニンフと結婚する。「睡蓮」のイメージは人間の憧れや欲望につながっているようだ。三浦貴大演じる主人公には魅力的な元カノがいるのに、どうしてタイから来た留学生に強く魅かれてしまうのか?「蓮」と「睡蓮」の違いについて考えてみることは、この映画の「謎」を解く鍵でもあるような気もする。
五藤監督の栃尾映画を観た人たちから「茨城県霞ケ浦を舞台にした映画を作ってほしい」と依頼されたのが映画「花蓮~かれん~」製作につながったそうだ。この映画できるだけ多くの人に見てもらいたいと思う。
わたしは「モノクロームの少女」、「ゆめのかよいじ」、「スターティング・オーヴァー」(上京篇)の栃尾三部作以来の五藤監督ファンだが、「花蓮~かれん~」以来、五藤監督の茨城映画にはまっている。先日、FB仲間で栃尾在住のTさんに、「何で茨城なのか?」と聞かれたので考えてみた。わたしは栃尾の生まれだが、母の他界により生後数か月で隣の土地に移っている。その後は東京を始めとして、様々な国を転々として生きてきた。この映画でヒロインが国境を越えて血のつながりについて考え、日本まで自分探しの旅に出て、恋をして、やがて自分の居場所を見つけるという物語に感情移入しているのだと思う。
キタキマユが演じた日系タイ人留学生のヒロインの名前がこの映画のタイトル「花蓮~かれん~」となっている。ヒロインの父は霞ケ浦出身で、母は熱帯に広く分布する「睡蓮」を国花とするタイの人だ。ヒロインは父を探すために、留学生として日本にやって来る。この映画では異国からやってきたヒロインのけなげさが際立っているが、実はもう一人のヒロインが登場する。日出ずる国に生まれた「陽子」は蓮で名高い茨城県霞ケ浦の人だ。東京で就職したが、地元に戻ってきたしっかりもの風のこの娘が元カレとの結婚を望む気持ちは打算だろうか? 純情だろうか?微妙に揺れ動く陽子役を演じた浦井なおの抑えた表情が素晴らしい。
前述のTさんは書いた。「浦井さんが、花蓮と青年を見つめる心の内を、苦しさを、そしてどうして私ではダメなのかを、素直に表現している」。わたしの見方もぶつけてみた。「高校時代につき合っていた二人の再会はほろ苦くて、懐かしい。二人とも東京の大学に行ったのにいつか遠くなり、男は故郷に帰って就職した。娘は東京での人生を夢見た。やがて都会に疲れた娘は帰ってくる。二人の気持ちが再燃する。娘は結婚を意識する。男はためらう。結婚って何だろう? 嫌いではないが、迷わずにはいられない」。三浦貴大が好演した主人公の若者の気持ちをそういう風に感じた。Tさんから一刀両断のコメントが返ってきた。「それでも純な想いに変わりはありません。私自身の数十年前の気持ちを思い出しました。」。このコメントは深い。年月が流れても、いろいろなことがあったとしても純な気持ちは変わらない。そういうこともある。
三浦貴大演じる主人公の若者の気持ちがこの二人の女性の間で揺れ動くところもこの映画の見どころだ。若者の怒ったような目つきと口元が良い。この若者が二人の違ったタイプのヒロインの間で微妙に揺れる恋物語はとても面白い。この霞ケ浦の「怒れる若者」は何が不満なのだろう? 地元の会社勤めだがレンコン農家の両親の老いを感じ、この先のことを考えずにはいられない。3人の若者の想いのぶつかり合いを縦糸にしながら、親子の関係、地元で生きること、異国で生きることなど様々な横糸がからんだ味わい深い映画となった。霞ケ浦の蓮田の美しい風景が印象的だ。
もう一つこの映画を見て印象に残ることがある。よその国から何らかの事情で日本にやってきた人々の目に、日本という国がどう映るのだろうかという点だ。移民・難民という現代的なテーマを扱った映画とも言えそうだ。この映画には原作本がある。日本のアジア地域への経済進出で海外に出た男たちが現地に残してきた子供たち。貧困からの脱出を夢見て日本に出稼ぎにくる娘たち。スナックの会話の場面、不法滞在で警察に摘発される場面には緊迫感がある。重い話にもかかわらず「花蓮」という名を持つヒロインの存在が映画の印象を清々しいものにした。途上国から留学してくる苦学生の中には祖国にプライドを持ち、今は貧しい祖国の発展に尽くしたいと思っている人は多い。彼らはそれぞれの国のエリートだから差別には敏感だ。この映画でヒロインは「自分の場所」で生きていくことを選ぶことになる。
この映画の終わり近くに、紙のランタンを夜空に飛ばす場面が登場する。ヒロインの故郷であるタイで旧暦の12月の満月の夕べに行われるロイクラトン祭りにちなんだものだ。コムローイは紙でできたランタンのことで、ろうそくに火をつけると小さな熱気球となって夜空に舞い上がる。クラトンは灯篭のことで、灯篭流しも行われる。その年の収穫に感謝し、恵みをもたらしてくれた精霊に感謝すると共に、その一年の罪や汚れを水に流すという意味があるようだ。チェンマイのお祭りでは数千のコムローイが夜空に舞うそうだが、この映画では一つだけのコムローイが夜空に漂っている。日本に父を探しにきたヒロインの孤独を象徴する場面だ。
この映画の二人のヒロインがどちらもけなげで魅力的だ。それぞれを霞ケ浦の「蓮の花」の精と、熱帯の国タイの国花である「睡蓮の花」の精と考えてみても面白い。蓮を国花としている国にはインド、ベトナムがあり、睡蓮はエジプト、タイ、バングラデシュ、スリランカで国花とされている。蓮は葉や花が水面から立ち上がるが、睡蓮は、葉も花も水面に浮かんでいる。睡蓮を水蓮と書くと思っている人もいるが、辞書を引くと睡蓮が正しい。フランスの画家モネが睡蓮の池を題材に、たくさん絵を描いたことはよく知られている。日本にも睡蓮の自生種があり、ヒツジグサと呼ばれる。洋の東西に分布している花だ。日本では蓮は清らかな白い花を咲かす辛抱と清浄の象徴だ。山田洋次監督「男はつらいよ」で寅さんは「泥に落ちても根のある奴は、いつか蓮の花と咲く」と歌った。
神話を題材にすることを得意とした英国の画家ウォーターハウスは美少年ヒュラスが泉の精であるニンフたちに池の底へ連れて行かれる場面の絵を描いている。ここでは睡蓮は若者を水底へ連れて行く妖艶な美女の象徴だ。ギリシャ神話でヒュラスはヘラクレスの従者だ。ヒュラスが近くの泉に水を汲みに行くと、泉のニンフたちは美しい若者の手を取って水底に引き込む。この若者は水底の国でニンフと結婚する。「睡蓮」のイメージは人間の憧れや欲望につながっているようだ。三浦貴大演じる主人公には魅力的な元カノがいるのに、どうしてタイから来た留学生に強く魅かれてしまうのか?「蓮」と「睡蓮」の違いについて考えてみることは、この映画の「謎」を解く鍵でもあるような気もする。
五藤監督の栃尾映画を観た人たちから「茨城県霞ケ浦を舞台にした映画を作ってほしい」と依頼されたのが映画「花蓮~かれん~」製作につながったそうだ。この映画できるだけ多くの人に見てもらいたいと思う。
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