2015年4月8日水曜日

ラッセ・ハルストレム監督 「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」

1985年の「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」はラッセ・ハルストレムというスエーデンの映画監督の自伝的な作品だ。少年時代を回想する映画としては、イタリア映画の傑作ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「ニュー・シネマ・パラダイス」の雰囲気に似ている。少年の初恋の相手らしいボーイッシュな女の子とのやりとりや、スエーデン美人のお姉さんが彫刻家のためにヌードモデルになる場面で、屋根から覗こうとして落ちて来る場面、ガラス工場での手伝いの場面、目が良く見えないお爺さんのために色っぽい週刊誌を読んであげる場面など、何とも言えない可笑しさと、懐かしさと哀愁が入り混じる感じが最高だ。

映画の題名である「犬としての私の人生」がすごい。この映画の主人公である犬好きの少年は、自分が厄介な目にあったり、不幸な出来事が起きるたびに、自分は「帰ってこない人工衛星に乗せられた犬よりはましだ」と考える。これは実話に基つくものだ。1957年11月に打ち上げられたソ連の人工衛星にはライカ犬が乗っていた。ソ連はその後何度も宇宙船に犬を搭乗させ、その多くを生還させたそうだが、この名誉ある宇宙飛行犬第一号の場合は始めから行ったきり帰れない旅だった。ガガーリンが初めて有人の人工衛星で宇宙を飛んだのは1961年のことだから、宇宙開発の研究のための貴重な犠牲になったわけだ。


この少年の母親は結核で余命いくばくもない。映画の中では母親の病状が悪化したために、親せきの家に預けられる少年の落ち着かない気持ちと、元気だった母親とすごした昔の時間を懐かしむ気持ちが、新しい仲間たちと一緒に経験した様々な事件や出来事を回想する物語の中で、哀愁を込めて描かれている。「犬のように」母親の気をひかずにはいられない気持ち。親戚に預けられて新しい環境に適応しようとする緊張感。母親の死、可愛がっていた犬の死を通じて自分の境遇を人工衛星に乗せられた犬の境遇と比べてしまうほどの寂寥感。この映画監督が自分の少年時代を思い出して「犬のような生活」と形容しているのには様々な意味が込められているようだ。


この映画監督はこの作品で認められ、その後も多くの名作を作っている。トビー・マグワイア主演の「サイダーハウス・ルール」(1999年)にしても、ジュリエット・ビノシュ主演の「ショコラ」(2000年)にしても、俳優たちの魅力が引き出された傑作だ。2011年の「砂漠でサーモン・フィッシング」も不思議な味わいの映画だ。魔法のような効果でチョコレートが人間たちを元気にした映画「ショコラ」の感じによく似ている。

2015年4月7日火曜日

ケイト・ウィンスレットの魅力 米ドラマ「ミルドレッド・ピアス」

2011年のこのTVドラマシリーズでケイト・ウィンスレットはエミー賞を受賞した。それだけの熱演だ。1941年の原作本があり、1945年に映画化された作品のリメイクだ。1930年代の大恐慌時代のアメリカが舞台となっている。ケイト・ウィンスレット演じるしっかり者のミルドレッド・ピアスは夫と二人の娘がいる平凡で幸せな家族の奥さんだった。夫は羽振りが良くてしゃれた車を乗り回すビジネスマンだったが、大恐慌の後の不景気で会社が倒産してしまう。仕事を失ったのみならず浮気をしている夫をミルドレッドは追い出してしまうが、娘二人を抱えて途方に暮れる。リセプショニストなどの仕事を探すが、不景気の時代でなかなか仕事はみつからない。家事手伝いの仕事が見つかりそうになるが、プライドが邪魔をして自分から断ってしまう。

やがて背水の陣でウエィトレスを始めて、レストランを切り回すノウハウを学んだミルドレッドは得意のパイ作りの腕を活かしてレストランを始める。この商売は成功する。富豪で色男のボーイフレンドもでき、ミルドレッドにもようやく運が向いてきたかに見えるとドラマな新たな展開を迎える。最初は末娘の病死。この病死を母親が危篤の子供の側にいなかったせいだと思いこんだ反抗期の姉娘は母親を心の片隅で憎むようになる。そのことを薄々感じる母親は、娘の愛情を取り戻すためにすべてをつぎ込んでも、この娘を何者かに育て上げようとし、選んだのがピアニストの道だった。ミルドレッドのレストラン・チェーンは成功するが、姉娘のピアノの修行は挫折してしまう。この段階で母娘の関係は一度破局を迎える。やがて和解すると、今度は娘を歌手として成功させようと夢中になり、やがては会社の金をつぎ込んでしまう。この辺りからとんでもない裏切りのドラマが連続して息もつかせない展開となる。アメリカ版の「女の一生」だ。


1945年の映画ではジョーン・クロフォードがアカデミー主演女優賞を受賞した。この映画化にあたっては監督はベティー・デイビスの主演を望んだそうだが、脚本を読んだベティ・デイビスは拒否したという話がある。確かにど迫力の物語で優雅さには欠ける話の展開だ。ジョーン・クロフォードで映画化されると作品の迫力のためか人気を呼び、ジョーン・クロフォードにとっては女優としてのキャリアの後半を代表する作品になった。その後、ベティ・デイビスとジョーン・クロフォードはとても仲が悪かったと伝えられているので因縁深い作品なのかも知れない。


ミルドレッドという名前はサマセット・モーム「人間の絆」でも重要な役割を演じる女性の名前でもある。こちらも猛烈な女性だった。「人間の絆」のミルドレッドは、困って世話になるつもりだった主人公に振られた腹いせに、住まわせてもらった部屋をめちゃめちゃに叩き壊して出て行く気位の高さが印象的だが、それに加えて上昇志向が強いこと、自分の美貌に自信があること、意識的であれ無意識にであれ男たちに甘えるところと利用するところは、ミルドレッド・ピアスの物語と共通と言えそうだ。



2015年4月6日月曜日

ラッセ・ハルストレム監督 「砂漠でサーモン・フィッシング(Salmon fishing in the Yemen)」

ラッセ・ハルストレムというスエーデンの映画監督がいる。1985年の「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」、1999年の「サイダーハウス・ルール」、2000年の「ショコラ」と佳作を作り続けてきた人だ。「サイダーハウス・ルール」のトビー・マグワイアにしても、「ショコラ」のジュリエット・ビノシュ」にしても他にたくさんの出演作があるが、彼らがもっとも魅力的に輝いている特別な映画と言えるだろう。

この監督による2011年の英国映画が「砂漠でサーモン・フィッシング」だ。イエメンの砂漠にダムを造ってサケを放流し、やがては砂漠を緑化したいと夢見るイエメンの金持ちがいて、主人公である水産専門家の博士とコンサルタントのヒロインがその夢の実現に努力する。最初はコメディにしか思えないが、このイエメンの金持ちがしきりに「信じることーfaith」を強調するあたりでなにやら映画は神秘的な雰囲気を帯びてくる。この辺りが魔法のような効果でチョコレートが人間たちを元気にした映画「ショコラ」の感じによく似ている。


主人公の博士にはジュネーブに赴任したキャリア・ウーマンの妻があり、ヒロインにはアフガニスタンで行方不明となっている恋人がいる。さあ、どうなるのか?と観客をはらはらさせながら、砂漠の中のダム建設も進んでいく。やがてヒロインの恋人がアフガニスタンの戦場から奇跡の生還をとげると、博士の恋は終わってしまうのだろうかと観客は感情移入する。そう思わせてからの最後のひとひねりが面白い。主役の二人が運命の出会いをすることによって、それまでの組み合わせが壊れてしまうあたりでほろ苦さは残る。単純なおとぎ話を装っているが、かなり深い話なのかも知れない。


二つのカップルがある事件をきっかけにばらばらになり、新しいカップルが生まれる物語と言えば、有名なロシア映画「運命の皮肉」を思い出した。モスクワとサンクトペテルスブルクでそれぞれに新年を迎え、結婚に踏み切る予定だった大人のカップル2組が、奇想天外な理由で場所が入れ替わり、元に戻ろうとして大騒ぎするが、やがて二人は運命の出会いをしてしまったことに気がつく。すべての出来事が大晦日に起きるので、今でもこの日になると旧ソ連圏の国々のテレビで放映される伝説の映画だ。このイエメンの夢物語とどこか似ている。




2015年4月2日木曜日

「ハンナ・アーレント」と「人間の条件」について

ドイツ、ルクセンブルク、フランスで共同制作され、これらの国とアメリカで大ヒットした2012年の映画(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)を観た。ナチの高官だったアイヒマンは南米に逃亡していたが、1961年に諜報機関モサドに拉致され、イスラエルで戦犯として裁判にかけられる。映画の中に、この裁判の記録フィルムが挿入されている。ドイツ系ユダヤ人で、アメリカに亡命していた哲学者ハンナ・アーレントは裁判を傍聴し、この裁判についての記事を書く。その主張は、アイヒマンは「極悪非道な悪魔の化身」などではなく「巨大な犯罪に関わった組織の中の凡庸な官吏」にすぎないというものだ。彼女はアイヒマンの責任は問われるべきであり、絞首刑は妥当としているので、減刑を求めているわけではない。

アーレントは「人間にとって考えることが大切で、それを停止すれば普通の人間でも怖ろしい罪を犯してしまう」と強調する。それだけならもっともな主張だが、「ユダヤ人指導者の中にも考えることを停止してナチに協力した人々がいた」と付け加えてしまったので、ユダヤ人同胞からのバッシングを受けることになる。ホロコーストの責任者であるドイツの戦犯を裁くことが生き残ったユダヤ人にとってのわずかな慰めであるにも関わらず、この哲学者は国籍に関係なく、思考を停止した人間に共通の問題としての悪を分析する。この理論のために、アーレントは同胞からの批判と憎悪を一身に浴びることになった。


「官僚的な組織の中で命令に従い、思考を停止すること」が悪につながるというアーレントの主張を描いたこの映画を観て、五味川純平原作の映画「人間の条件」(小林正樹監督、1959-1961年)を思い出した。仲代達矢演じた主人公の梶は、日本が支配する満州国で良心的な管理者として生きることを希望して、国策会社の経営する鉱山に赴任する。彼は「極悪人」ではないし、「考えることを停止できる人間」でもない。自分の良心と非人間的な植民地的経営との間で板挟みになり、苦しみ抜く。梶のような人間は哲学者アーレントの2分類の中間のタイプということになるのだろうか。良心に照らしての思考が停止しているわけではない。組織の方針に逆らったらどんな目に遭わされることになるのか、組織の中で生きることからの脱落を選ぶのか、家族は大丈夫だろうか、その他の様々なことを忖度した上で、組織の歯車になることを選んだ人たちもいるだろう。そういうふうに生き延びた人たちが、戦犯アイヒマンと同様に「思考を停止した凡庸な悪人たち」としてひと括りにされるのであれば、アーレントのような理論を唱える人は「傲慢で冷徹だ」ということになるのかも知れない。


この映画ではアーレントと、師であったドイツの哲学者ハイデガーの関係も詳しく描かれている。ハイデガーが親ナチの立場でヒトラー政権下で栄達を続けたことは、ユダヤ人であるアーレントを失望させた。自分の学者としての出発点を作った恩師であり、愛人でもあったハイデガーとナチの関係をどう考えるかについてアーレントは苦しんだようだ。おそらく「極悪人としてのナチ協力者」ではなく、かつては素晴らしい学者であった恩師ですら「思考を停止」した時点で本来の彼自身ではなくなったという理解が彼女には必要だったような気がする。この点では「冷徹非情」と批判されたアーレントの理論はとても「人間的な」議論だった可能性がある。


2015年4月1日水曜日

ロブ・ライナー監督 「The Bucket List」

この2007年の映画はしばらく前にFBグループで話題になった。「The Bucket List」は「死ぬ前にやりたいことのリスト」くらいの意味だ。長い邦題「最高の人生の見つけ方」がついている。映画好きのFB仲間が邦題が気に入らないと文句を言っていたが同感だ。イタリア映画の傑作「The Best Offer」に「鑑定士と顔のない依頼人」という邦題がついたのと同じくらいの原題からの離れ方だ。この意味不明の邦題になったのは、英語の原題を和訳するのが難しかったからだろう。英語で「kick the bucket」は「死ぬ」ことを意味する言葉だが、その由来を調べると英文の辞書には2説出ている。一つは首を吊って死ぬ時にバケツを台に使うからで、もう一つは、バケツというのが昔農場で豚を屠殺する時に吊るす梁を示す言葉で、死ぬ前に豚が暴れて梁を蹴るところからきたというものだ。バケツを台にするのは自殺の時だから、梁を示すという説の方がもっともな感じがする。

この映画の話は単純で、まるでハリウッド版のイソップ物語だ。モーガン・フリーマン演じる主人公は読書が趣味で、博識のクイズ名人で、黒人で、自動車修理工で、若い頃に恋女房に子供が出来て大学をあきらめ、歴史の勉強をする夢も諦めて生きてきた男だ。妻に愛され、子供たちに恵まれ、孫たちにも恵まれているが、どこかで自分の人生を「これで良かったのだろうか」と考えている。今更考えても仕方がない。彼はすでに老人であり、ガンと宣告され余命数ヶ月だ。ジャック・ニコルソン演じるもう一人の主人公は裸一貫からたたき上げて大富豪になった白人で、何度も結婚したが、同じ回数だけ離婚もしている。一人で自由にやりたいことをやり、すべてに成功して欲しいものは何でも金で買える身分だ。娘も孫もいるのに会えないことを寂しく思っているが、今更考えても仕方がない。彼もすでに老人で、ガンと宣告され余命数ヶ月だ。

生きてきた世界も境遇も大きく異なる二人が、同じようにガンと宣告され余命数ヶ月と宣告されたところから、このハリウッド版のイソップ物語は始まる。二人はガンの化学療法でお互いが苦しむ姿を見ている内に共感し合い、友だちになる。やがて「バケツ・リスト」を作り、なんでもやりたいことをやってから死のうと決めて、大富豪のプライベート・ジェットで世界の果てまで旅に出る。スカイ・ダイビング、夢のレーシングカー、ピラミッドへの旅、万里の長城でバイクで走る、ヒマラヤへの旅と手当り次第に、これまでに夢見ていたことを叶えていくが、最後にそのリストを達成することになるためには、一番欲しいが、一番怖れていたものに直面する必要があった。物語は単純明快で「ハリウッド的」かも知れない。それでもこういう映画を観て良い気持ちになるのは悪くない。