DVDでロン・ハワード監督「ビューティフル・マインド」(2001年)という映画を観ていて主人公の病気について、思うところがあった。見終えてから調べてみるとこの映画の主人公の病名「スキゾフレニア」は現在では「統合失調症」と訳されている。この病気は21世紀になるまで「精神分裂症」という名前で呼ばれていて、今では新しい名前になっていることを知らなかった。この映画を観て少なからず動揺した。これまでこういう病気の人はなんらかのきっかけで、現実の世界とは違う別の世界に住んでいるのだろうかと思っていた。映画の中では、妄想の中の人たちが現実の人たちと共存していて、それを主人公が意識している。これは今まで想像したことがない状態だ。
20代の頃に事情があって、この分野の本はかなり読んだつもりだったが、今でもわからないことが多い。2002年になって、日本で病名が変更された理由について、ウィキペディアでは以下のような説明がなされている。
- 日本では、「精神分裂病」という名称から「精神が分裂する病気」と解釈され、ひいては「理性が崩壊する病気」と誤って解釈されてしまうことがあった。
- 患者の家族に対して社会全体からの支援が必要とされておりながら、誤った偏見による患者家族の孤立も多く、その偏見を助長するとして患者・家族団体等から、病名に対する苦情が多かった。
- 医学的知見からも「精神が分裂」しているのではなく、脳内での情報統合に失敗しているとの見解が現れ始め、学術的にも分裂との命名が誤りとみなされてきた。
この映画はだいぶ前につれあいに勧められて、「いつか観る映画」の保存ケースにDVDをしまったままになっていた。1994年にゲーム理論の研究でノーベル賞を受賞したジョン・ナッシュ氏と夫人が交通事故で今年の5月に逝去されたとの報道を読んで、映画をケースから取り出して観てみた。統合失調症を患いながらも数学者としての研究と教育者としての活動を続けた同氏の苦闘の記録であり、それを支えた夫人の物語である。主演のラッセル・クロウも熱演だが、夫人の役を演じたジェニファー・コネリーが素晴らしい。大学の教室で才気の光る数学の天才の魅力をいち早く発見し、家庭を築くまでの部分で、この映画はこれまで観たハリウッド映画の恋物語の中でもベストの部類に入る。やがて物語は暗転する。常人とは異なる並はずれた才能のきらめきは統合失調症というとても複雑な病気の投げかける不思議な影でもあったことが明らかになってくる。
この映画を観た感想を日本に住んでいるつれあいに電話で伝えていたら、話がかみ合わなくなった。わたしはかつては「精神分裂病」と呼ばれた病気が、様々な症状を持つものであること、それは必ずしも理性や人格の崩壊を伴うものではないということをこの映画とその解説を通して知り、奇妙に興奮していたので、その部分ばかりを話していた。つれあいの方はジェニファー・コネリーが熱演した夫人の献身的な役割に興味が集中していたので、お互いの話が空回りした。わたしもつれあいもはっきりと口にはしなかったが、この映画のことを話しながら連想していたものは同じだったはずだし、それを話題にしたくない気持ちも共通していた。わたしが10代の半ばから、つかず離れずの感じだが長い間かかわった人が似たような症状で苦しんでいたことをわたしのつれあいは知っているからだ。
長く曖昧模糊のまま続いた状態だったが、それはわたしの生き方に大きな影響を与えた。昔はそういう病気に対して「社会の偏見」は大きかった。これは私自身の偏見が強かったということでもある。わたしは自分が直面した事態を誰にも話せないことがらのように感じていた。その人と付き合っていたことを長い間、自分の親にも話していないし、友だちにも話せなかった。発端は中学生の頃からその人が気になったことだった。高校時代が過ぎて、大学生になっても付き合う機会がなかったが、空想の中でその人は存在していた。東京で一人暮らしをするようになると何度かその人の夢を見た。風の吹き回しなのか、学生生活の最後の年にようやく再会できた。長い間憧れていた人との関係がぎくしゃくするのには半年で十分だった。そして社会人になり3年が過ぎた。その頃はその人の不思議な状態を引き受けることができるとも思えなくなっていたが、別れを切り出すこともできなかった。不安定な状態が続いた。
最初の出会いから10年ほど経った頃に、その人の家族を交えて話し合った。不安定な状態を解消するのが重要だという結論になった。自信はなかったが、他にどうしてよいのかも考えつかなかった。それが最初の結婚だった。現実の生活らしいものは続かなかったので、長らく続いた関係はすぐに終わった。空虚感が残った。恥ずかしくて逃げ出したいような気持ちも強かった。離婚したことは親兄弟以外には言わなかった。会社でも秘密にしていたし、かつての自分を知っている友だちからも遠くなった。酒を飲むことが多かった。
やがて生活を変えたいと思い始めた。数年がかりになりそうだったが日本を飛び出す方法を思いついた。それが会社派遣の資格を得て留学することだった。それからは仕事をしながらでも、昼飯を食べながらでも、酒を飲みながらでも、上司たちと麻雀を打ちながらでもいつもアメリカのことだけを考える生活を続けた。英語のペーパーバックも読み始めた。キャロル・キングもジョン・レノンも一生けんめい聴いた。その頃のアメリカは「希望」だった。1986年にその夢が実現した。アメリカで過ごした初めての外国生活で多少は変わることができたと思う。そして今のつれあいと一緒になった。それから長い時間が過ぎた。なんとか高校・大学時代の友人だったA君と連絡をとりたいと思うようになった。IT革命のおかげで消息を辿ることができた。30数年ぶりに再会を果たした時はなんとも言えない気持ちだった。
ジョン・ナッシュ氏の闘病の様子を描いた映画をみて動揺したのは、そんな風に自分の人生に影響を与えた人がどういう風に生きていたのかを、おそらく自分は正しく理解していなかったのかも知れないと思ったからだ。考えても仕方がないことだ。もう30年以上も昔のことだ。その人の消息も知らない。それでも映画を観て複雑な気持ちになった。
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