2015年5月13日水曜日

五藤利弘監督 「花蓮~かれん~」をめぐる論争 陽子派VS花蓮派

五藤利弘監督の映画「花蓮~かれん~」で浦井なおが演じたもう一人のヒロイン「陽子」の気持ちについて、FB友だちのTさんがブログで書いているのを読んだ。きたきまゆが演じたタイから来た娘「花蓮」は自己主張のしっかりした女性だが、純粋な元カノの気持ちを「ひかえめだが、強い想いを抱き続ける日本女性の伝統」に結びつけて論じている。Tさんは書いた。「浦井なおさんが、花蓮と青年を見つめる心の内を、苦しさを、そしてどうして私ではダメなのかを、素直に表現している」。なるほどのコメントだ。わたしの最初の感じ方とも違っていたので新鮮だった。

わたしの見方もぶつけてみた。「高校時代につき合っていた二人の再会はほろ苦くて、懐かしい。二人とも東京の大学に行ったのにいつか遠くなった。男は故郷に帰って就職した。親のレンコン農家を継ぐかどうか気にしないではいられない。娘は東京での人生を夢見た。やがて都会に疲れた娘は帰ってくる。二人の気持ちが再燃する。娘は結婚を意識する。男はためらう。今さら恋だろうか? だとしたら、かつての別れの切なさは何だったのか? 元カノは都会で恋をしただろうか? 結婚って何だろう? 打算ではないのか? 嫌いではないが、迷わずにはいられない」。三浦貴大が好演した主人公の若者の気持ちをそういう風に感じたのである。


Tさんから一刀両断のコメントが返ってきた。「それでも純な想いに変わりはありません。私自身の40年前の気持ちを思い出しました。」。このコメントは深い。「泥に落ちても根のある奴はやがてハチスの花と咲く」という蓮の花のイメージに近い。年月が流れても、いろいろなことがあったとしても純な気持ちは変わらない。そういうことはある。追い打ちで、コメントが返ってきた。「この年齢でこういう話題を楽しめるのは映画の力でしょう」。快刀乱麻とはこの人のことだ。こちらも反撃を試みた。「若い日の気持ちを思い出すことは今の年齢でしかできない贅沢でしょう。香り高いヴィンテージの酒になっていることもある。乱暴に扱ったので酢になっていることもある」。人はそれぞれ自分の経験という窓枠の形に合わせて世の中を眺めている。このことはわが身を振り返れば明らかだ。人生いろいろで面白い。


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