2015年3月9日月曜日

上田秋成「雨月物語」の伝統を継ぐ映画たち 

フェースブックを観ていたら骸骨が抱き合っている写真があった。スクリーンの向こう側に人が立つとこちら側にいる人たちには骸骨だけが見えるという仕組みだ。いろいろなカップルが出てくる。最後にメッセージが流れる。「愛は人種の違いを越える」、「愛は年齢を越える」、「愛は性別を越える」などなど素敵な動画だった。

この動画を観てすぐに連想したのは上田秋成の雨月物語の中の「浅茅が宿」を基にした怪談で、都から戻ってきた薄情な夫を優しく迎えた新珠美千代さんの美しさだ。朝になって残っていたのは骸骨と黒髪だけだったという凄絶な物語だ。三国連太郎演じる薄情な男を待ち続け、とうとう再会できたので恨みに思う気持ちが消えて成仏して消えたのか? いったんは男をあちらの世界への道連れにしようと思ったけれど朝が来たらばかばかしくなって一人で成仏することにしたのか?小林正樹監督の傑作である「怪談」(1965年)の中の「黒髪」の場面である。


「浅茅が宿」の物語は溝口健二監督の「雨月物語」(1953年)でも取り上げられている。田舎暮らしに飽きて出世のために都に上る男を演じたのは森雅之だ。哀れでけなげな妻を演じたのは田中絹代だった。こちらは都の暮らしにも飽きて男が戻って来ると、すでに妻は死んでいるが、残された子供が元気に生きている。同じ物語に題材を取っても、小林作品では男の顔に死相が現れるのが結末で、溝口作品では子供を育てる役割を背負う男には再生の希望が見える結末となっている。


小林正樹監督の「怪談」に話を戻すと、こちらにはラフカディオ・ハーンの原作でよく知られている「耳無し芳一」の物語も出てくる。琵琶法師の奏でる音色に聞きほれて法師を迎えにくる丹波哲郎演じる平家の落ち武者とその仲間たちの想いが見事に描かれた作品だ。「雨月物語」も「怪談」も彼岸と此岸の境界で強い思いを抱き続けて彷徨う者たちを描いた日本映画の傑作だ。


日本映画の伝統に脈々と流れる「想い続ける力、彷徨う力」というテーマにこだわった作品としては、郷里である新潟県長岡市出身の五藤利弘監督の「ゆめのかよいじ」と「モノクロームの少女」がある。どちらの作品も物語の構造としては、伝統的な怪談映画に近い。勢いのある若手の俳優たちを起用したせいか、活き活きした青春映画にもなっている。新潟県長岡市栃尾を舞台にしたこの二つの作品はどちらも映像が美しい。生まれた土地だったり、大切な人をしのぶ場所だったりという理由で、ある風景が自分にとって特別な意味を持つということは時々ある。そういう場所がある時スクリーンの映画になっていて、風の吹いている感じや色彩のイメージが自分の心象風景のままだったりして感動した経験はないだろうか?「ゆめのかよいじ」も「モノクロームの少女」もそういう映画である。




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