2015年4月2日木曜日

「ハンナ・アーレント」と「人間の条件」について

ドイツ、ルクセンブルク、フランスで共同制作され、これらの国とアメリカで大ヒットした2012年の映画(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)を観た。ナチの高官だったアイヒマンは南米に逃亡していたが、1961年に諜報機関モサドに拉致され、イスラエルで戦犯として裁判にかけられる。映画の中に、この裁判の記録フィルムが挿入されている。ドイツ系ユダヤ人で、アメリカに亡命していた哲学者ハンナ・アーレントは裁判を傍聴し、この裁判についての記事を書く。その主張は、アイヒマンは「極悪非道な悪魔の化身」などではなく「巨大な犯罪に関わった組織の中の凡庸な官吏」にすぎないというものだ。彼女はアイヒマンの責任は問われるべきであり、絞首刑は妥当としているので、減刑を求めているわけではない。

アーレントは「人間にとって考えることが大切で、それを停止すれば普通の人間でも怖ろしい罪を犯してしまう」と強調する。それだけならもっともな主張だが、「ユダヤ人指導者の中にも考えることを停止してナチに協力した人々がいた」と付け加えてしまったので、ユダヤ人同胞からのバッシングを受けることになる。ホロコーストの責任者であるドイツの戦犯を裁くことが生き残ったユダヤ人にとってのわずかな慰めであるにも関わらず、この哲学者は国籍に関係なく、思考を停止した人間に共通の問題としての悪を分析する。この理論のために、アーレントは同胞からの批判と憎悪を一身に浴びることになった。


「官僚的な組織の中で命令に従い、思考を停止すること」が悪につながるというアーレントの主張を描いたこの映画を観て、五味川純平原作の映画「人間の条件」(小林正樹監督、1959-1961年)を思い出した。仲代達矢演じた主人公の梶は、日本が支配する満州国で良心的な管理者として生きることを希望して、国策会社の経営する鉱山に赴任する。彼は「極悪人」ではないし、「考えることを停止できる人間」でもない。自分の良心と非人間的な植民地的経営との間で板挟みになり、苦しみ抜く。梶のような人間は哲学者アーレントの2分類の中間のタイプということになるのだろうか。良心に照らしての思考が停止しているわけではない。組織の方針に逆らったらどんな目に遭わされることになるのか、組織の中で生きることからの脱落を選ぶのか、家族は大丈夫だろうか、その他の様々なことを忖度した上で、組織の歯車になることを選んだ人たちもいるだろう。そういうふうに生き延びた人たちが、戦犯アイヒマンと同様に「思考を停止した凡庸な悪人たち」としてひと括りにされるのであれば、アーレントのような理論を唱える人は「傲慢で冷徹だ」ということになるのかも知れない。


この映画ではアーレントと、師であったドイツの哲学者ハイデガーの関係も詳しく描かれている。ハイデガーが親ナチの立場でヒトラー政権下で栄達を続けたことは、ユダヤ人であるアーレントを失望させた。自分の学者としての出発点を作った恩師であり、愛人でもあったハイデガーとナチの関係をどう考えるかについてアーレントは苦しんだようだ。おそらく「極悪人としてのナチ協力者」ではなく、かつては素晴らしい学者であった恩師ですら「思考を停止」した時点で本来の彼自身ではなくなったという理解が彼女には必要だったような気がする。この点では「冷徹非情」と批判されたアーレントの理論はとても「人間的な」議論だった可能性がある。


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