2014年10月21日火曜日

ポール・マザースキー監督「ハドソン河のモスコー」

週刊文春のコラム「本音を申せば」の小林信彦の映画評が好きだ。109日号でこの人が今年8月に急逝したロビン・ウィリアムズについて書いている。代表作として「ガープの世界」、「グッドモーニング・ベトナム」、「いまを生きる」、「レナードの朝」などを挙げているのは順当なところだが、この人は「ハドソン河のモスコー」(1984)を好きな作品としてコメントしている。

この映画を観たのは1986年の7月だ。ニューヘイブンで英語の勉強をしている時にアメリカ人の先生が見せてくれた映画だ。たまたま亡命することになったロシア人が片言の英語でニューヨークで生きていくところを生徒に見せて激励してくれたのだろう。モスクワのサーカスでサックスを吹いている主人公が米国公演のメンバーとしてニューヨークを訪れることになることから物語が始まる。

映画の前半の見どころは冷戦下の旧ソ連の生活の雰囲気が描かれているところだ。亡命を夢見ていたサーカスの同僚にKGBの注意が集中していたことから、思いがけなく主人公に亡命のチャンスが訪れる。ニューヨークのデパートの中でのドタバタ騒ぎの後で亡命に成功してしまう。映画の後半の見どころはこの亡命ロシア人がサックス奏者としての仕事も、家族の絆も、母国語すらも犠牲にして新天地ニューヨークで生きて行くことの寂寥感だ。この映画を観てロビン・ウィリアムズが好きになった。その後も名作に多く出演したが、それでもこの映画が一番だ。

この映画を撮ったポール・マザースキ監督はお祖父さんがウクライナ人でアメリカに移住した人だそうだ。この映画では自由の天地アメリカへの憧れと自分が生まれ育った国に置いてきたものを想う気持ちの両方が描かれている。ロビン・ウィリアムズがその微妙な感じをとてもうまく出している。この監督の1988年のリチャード・ドレイファス主演の「パラドールにかかる月」、1989年の「エネミーズ ラブストーリー」も懐かしい。

2014年10月20日月曜日

「L.A. ストーリー」と「マイ・ブルー・ヘブン」 スティーブ・マーティンの魅力

グーグルで好きな本や映画を検索できるありがたい時代になった。それでも日本から送ってもらう雑誌を手に取ってページをめくる楽しみは捨てがたい。面白い書評とか映画評とかを見つけた時の喜びは格別だ。週刊文春のコラム「本音を申せば」の小林信彦の映画評には共感することが多い。

「ピンク・パンサー」のクルーゾー警部を演じたスティーブ・マーティンは「花嫁のパパ」、「バックマン家の人々」 など多くの作品に出ているが、この人が出演したミック・ジャクソン監督の「L.A. ストーリー 恋が降る街」(1991年)についての映画評は小林信彦以外には読んだことがない。この映画は大人の童話だ。それぞれいい感じに歳を重ねた二人のすれ違いを、不思議なハイウェイの交通信号が後押しする。人と人との関係についての比喩なのだろう。ちかちかと控えめな信号は出ている。それに気が付いて行動できるかは別の話だ。この映画の監督は1992年にケヴィン・コスナーとホィットニー・ヒューストンの「ボディガード」を撮った人でもある。ローラースケートを履いたカッコいいLA娘の役でサラ・ジェシカ・パーカーが出ている。


この演技派のコメディアン俳優の作品は日本未公開のものも多いと小林氏は指摘している。「マイ・ブルー・ヘブン」(1990年)というハーバート・ロス監督が撮った傑作が日本では紹介されていないことをずーと不思議に思っていたので納得した。この映画はスティーブ・マーティン演じるヤクザのお兄さんと 「ミクロ・キッズ」 のリック・モラニス演じるFBI捜査官の掛け合いが面白い。証人保護プログラムで別の人間として生きている主人公とその監視役の捜査官の話なのだが、二人は妙に息が合う。この二人を空港で出迎えた親族がFBI捜査官を泣き落とす場面と、二人がナイトクラブでメレンゲを踊る場面が最高だ。


リック・モラニスがいい味を出している。お堅いFBI捜査官なのだが気がつくと妻には浮気され、逃げられてしまう。仕事でスティーブ・マーティン演じるマフィアのチンピラの主人公を監視している内に、微妙に影響され、それまで仕事一筋だった堅物男がどんどん面白い男になっていく。やがて新しい恋が芽生える。音楽も素晴らしくて元気の出る映画だ。ハーバート・ロス監督は70年代に「愛と喝采の日々」、「グッバイ・ガール」 などを撮った人だ。これも懐かしい。

五藤利弘監督「花蓮~かれん~」 蓮と睡蓮の妖精たち(土浦セントラルシネマズ、2016年12月17日より2017年春まで)

五藤利弘監督の映画「花蓮~かれん~」が、12月17日より年明けまで土浦セントラルシネマズで再公開される予定となっている。同館で昨年暮れから今年4月までロングラン公開された映画である。2014年に長岡アジア映画祭、2015年に池袋、大阪で劇場公開、同年11月にロケ地行方市で凱旋上映、2016年8月の行方市「弍湖の國」映画祭でも上映されるなど根強い人気が続いている。

わたしは「モノクロームの少女」、「ゆめのかよいじ」、「スターティング・オーヴァー」(上京篇)の栃尾三部作以来の五藤監督ファンだが、「花蓮~かれん~」以来、五藤監督の茨城映画にはまっている。先日、FB仲間で栃尾在住のTさんに、「何で茨城なのか?」と聞かれたので考えてみた。わたしは栃尾の生まれだが、母の他界により生後数か月で隣の土地に移っている。その後は東京を始めとして、様々な国を転々として生きてきた。この映画でヒロインが国境を越えて血のつながりについて考え、日本まで自分探しの旅に出て、恋をして、やがて自分の居場所を見つけるという物語に感情移入しているのだと思う。

キタキマユが演じた日系タイ人留学生のヒロインの名前がこの映画のタイトル「花蓮~かれん~」となっている。ヒロインの父は霞ケ浦出身で、母は熱帯に広く分布する「睡蓮」を国花とするタイの人だ。ヒロインは父を探すために、留学生として日本にやって来る。この映画では異国からやってきたヒロインのけなげさが際立っているが、実はもう一人のヒロインが登場する。日出ずる国に生まれた「陽子」は蓮で名高い茨城県霞ケ浦の人だ。東京で就職したが、地元に戻ってきたしっかりもの風のこの娘が元カレとの結婚を望む気持ちは打算だろうか? 純情だろうか?微妙に揺れ動く陽子役を演じた浦井なおの抑えた表情が素晴らしい。

前述のTさんは書いた。「浦井さんが、花蓮と青年を見つめる心の内を、苦しさを、そしてどうして私ではダメなのかを、素直に表現している」。わたしの見方もぶつけてみた。「高校時代につき合っていた二人の再会はほろ苦くて、懐かしい。二人とも東京の大学に行ったのにいつか遠くなり、男は故郷に帰って就職した。娘は東京での人生を夢見た。やがて都会に疲れた娘は帰ってくる。二人の気持ちが再燃する。娘は結婚を意識する。男はためらう。結婚って何だろう? 嫌いではないが、迷わずにはいられない」。三浦貴大が好演した主人公の若者の気持ちをそういう風に感じた。Tさんから一刀両断のコメントが返ってきた。「それでも純な想いに変わりはありません。私自身の数十年前の気持ちを思い出しました。」。このコメントは深い。年月が流れても、いろいろなことがあったとしても純な気持ちは変わらない。そういうこともある。

三浦貴大演じる主人公の若者の気持ちがこの二人の女性の間で揺れ動くところもこの映画の見どころだ。若者の怒ったような目つきと口元が良い。この若者が二人の違ったタイプのヒロインの間で微妙に揺れる恋物語はとても面白い。この霞ケ浦の「怒れる若者」は何が不満なのだろう? 地元の会社勤めだがレンコン農家の両親の老いを感じ、この先のことを考えずにはいられない。3人の若者の想いのぶつかり合いを縦糸にしながら、親子の関係、地元で生きること、異国で生きることなど様々な横糸がからんだ味わい深い映画となった。霞ケ浦の蓮田の美しい風景が印象的だ。

もう一つこの映画を見て印象に残ることがある。よその国から何らかの事情で日本にやってきた人々の目に、日本という国がどう映るのだろうかという点だ。移民・難民という現代的なテーマを扱った映画とも言えそうだ。この映画には原作本がある。日本のアジア地域への経済進出で海外に出た男たちが現地に残してきた子供たち。貧困からの脱出を夢見て日本に出稼ぎにくる娘たち。スナックの会話の場面、不法滞在で警察に摘発される場面には緊迫感がある。重い話にもかかわらず「花蓮」という名を持つヒロインの存在が映画の印象を清々しいものにした。途上国から留学してくる苦学生の中には祖国にプライドを持ち、今は貧しい祖国の発展に尽くしたいと思っている人は多い。彼らはそれぞれの国のエリートだから差別には敏感だ。この映画でヒロインは「自分の場所」で生きていくことを選ぶことになる。


この映画の終わり近くに、紙のランタンを夜空に飛ばす場面が登場する。ヒロインの故郷であるタイで旧暦の12月の満月の夕べに行われるロイクラトン祭りにちなんだものだ。コムローイは紙でできたランタンのことで、ろうそくに火をつけると小さな熱気球となって夜空に舞い上がる。クラトンは灯篭のことで、灯篭流しも行われる。その年の収穫に感謝し、恵みをもたらしてくれた精霊に感謝すると共に、その一年の罪や汚れを水に流すという意味があるようだ。チェンマイのお祭りでは数千のコムローイが夜空に舞うそうだが、この映画では一つだけのコムローイが夜空に漂っている。日本に父を探しにきたヒロインの孤独を象徴する場面だ。


この映画の二人のヒロインがどちらもけなげで魅力的だ。それぞれを霞ケ浦の「蓮の花」の精と、熱帯の国タイの国花である「睡蓮の花」の精と考えてみても面白い。
蓮を国花としている国にはインド、ベトナムがあり、睡蓮はエジプト、タイ、バングラデシュ、スリランカで国花とされている。蓮は葉や花が水面から立ち上がるが、睡蓮は、葉も花も水面に浮かんでいる。睡蓮を水蓮と書くと思っている人もいるが、辞書を引くと睡蓮が正しい。フランスの画家モネが睡蓮の池を題材に、たくさん絵を描いたことはよく知られている。日本にも睡蓮の自生種があり、ヒツジグサと呼ばれる。洋の東西に分布している花だ。日本では蓮は清らかな白い花を咲かす辛抱と清浄の象徴だ。山田洋次監督「男はつらいよ」で寅さんは「泥に落ちても根のある奴は、いつか蓮の花と咲く」と歌った。

神話を題材にすることを得意とした英国の画家ウォーターハウスは美少年ヒュラスが泉の精であるニンフたちに池の底へ連れて行かれる場面の絵を描いている。ここでは睡蓮は若者を水底へ連れて行く妖艶な美女の象徴だ。ギリシャ神話でヒュラスはヘラクレスの従者だ。ヒュラスが近くの泉に水を汲みに行くと、泉のニンフたちは美しい若者の手を取って水底に引き込む。この若者は水底の国でニンフと結婚する。
「睡蓮」のイメージは人間の憧れや欲望につながっているようだ。三浦貴大演じる主人公には魅力的な元カノがいるのに、どうしてタイから来た留学生に強く魅かれてしまうのか?「蓮」と「睡蓮」の違いについて考えてみることは、この映画の「謎」を解く鍵でもあるような気もする。

五藤監督の栃尾映画を観た人たちから「茨城県霞ケ浦を舞台にした映画を作ってほしい」と依頼されたのが映画「花蓮~かれん~」製作につながったそうだ。この映画できるだけ多くの人に見てもらいたいと思う。


五藤利弘監督「スターティング・オーヴァー」 五藤ワールドの新展開

長岡出身の五藤利弘監督の映画「スターティング・オーヴァー」(2014年)を観た。2009年の「モノクロームの少女」、2013年の「ゆめのかよいじ」を観た時以来、次の作品が楽しみだった。わたしの郷里でもある長岡市栃尾を舞台にした、抒情的でひたむきな物語に好感が持てた。登場してくる人物たちの必死の想いに加えて、監督自身の様々な想いが込められた魂の映画だ。ロケ地である長岡市の栃尾、刈谷田川、和島などに縁を持つ観客にとっては、こうした映画が劇場公開され、日本中のツタヤにいけばDVDとして販売されていることが「奇跡」のように思われる。

「スターティング・オーヴァー」はひたむきさの目立つそれまでの長編2作とは少し違っている。一番の違いは青春時代の監督を連想させる私小説風の雰囲気と、その照れ隠しなのかさりげない遊び心が見え隠れすることだ。主人公である不器用な映画青年は引っ越し準備で忙しい。たくさんのシナリオ雑誌を引っ越し用の段ボールに詰めている場面は監督自身を登場させるヒッチコックやリャザノフの作品を連想させる。映画の中に五藤監督の前2作のパンフが登場したり、長岡と栃尾関係の小道具が多用されている。この主人公が過去につき合った女友達の写真を隠す缶は長岡名物の元祖浪花屋の柿の種だ。古いものを整理して思い出すのが好きで、捨てられない人らしい。


十年来の付き合いの彼女と今日で別れるための引っ越し準備の最中に栃尾の銘酒「越の景虎」をたっぷり使って夕食を作る。優しい人なのだ。別れの晩餐には冷蔵庫に残っていたものをあるだけ使って美味しそうなものを並べる。いろいろな料理が主人公の好きな映画にちなんで説明される場面で登場するのが、栃尾の名店「豆撰」の油揚げ。この時のセリフ「これは映画「モノクロームの少女」の中で大杉漣が食べた油揚げだぜ」というところで思わず「そうそう」と声をかけたくなる。


不器用な主人公とヒロインの会話のぎこちない感じもいい。ヒロインは呼びかける。「あの地震の時に守ってくれたじゃない。あれから十年よ。あたしが地元の短大を出て再会してから、ずっと一緒にやってきたじゃない」という訴えを聞いて観客はこの映画の意味を知る。これは「モノクロームの少女」のヒロインだったくるみちゃんと彼の後日譚なのだ。


引っ越し準備の途中で腹を立てたヒロインに追い出された主人公が困り果てて迷いこむ深夜のおかまバーの場面が最高だ。この映画のストーリーに重要な役割を果たしている。「十年の後」というほろ苦い青春を回顧した柴田翔の小説を思い出した。新潮文庫の「贈る言葉」に表題作と一緒に入っている。五藤監督がシナリオライターとして奮闘し、羽ばたくことを夢見た時期を描いたこの映画は、いろいろユーモア交じりの仕掛けがしてあるが、実はかなりほろ苦い作品だ。


 

五藤利弘監督「モノクロームの少女」 五藤ファンタジーの原点

五藤利弘監督の「モノクロームの少女」(2009年)という作品を観た。この映画をみて感じたのは同監督の話題作「ゆめのかよいじ」との共通点だ。監督自身の郷里である長岡市の緑の田園風景が映画全編を流れる。街の中を川が流れ、物語は橋の上で展開する。ヒロインの少女が地震で廃校となった校舎の建物の中で見つけた一葉の写真から謎解き物語が始まる。そこに写っている女性の「想い」をテーマにしたファンタジー仕立ての物語は「ゆめのかよいじ」と共通するものだ。五藤監督ワールドのファンにとってはこの一貫した姿勢がうれしい。

この映画には長岡市栃尾にある南部神社というお社が登場する。境内に猫の石像があって、「猫又権現」とも呼ばれる。招き猫で縁起が良いとして、商売繁盛を願う人も参拝するらしい。この神社は鎌倉時代末期の武将新田義貞に縁があるそうだ。後醍醐天皇に呼応して、群馬を拠点にしていた新田義貞が挙兵した時に、越後の国の新田氏の一族も参加した。その挙兵の日に祖先の霊を慰めるための供養が、毎年5月8日に行われる。南部神社の「百八灯」と呼ばれる伝統行事である。暗闇の中に数千のろうそくの灯りが浮かぶ幻想的な光景だ。喪われた者たちの想いを描いた「モノクロームの少女」に良く似合う場所だ。


2014年8月に五藤監督にお会いする機会があったので 「今のようにご自分の作品を撮れるようになるまでの修行時代は助監督としてどういう活動をされたのですか」 と質問すると 「脚本を書いていたので助監督は経験していません」 という返事だった。抒情的なファンタジーと物語にこだわる五藤監督の作風もそれで納得できる。「モノクロームの少女」もご自身による脚本作品だ。長編としては第一作にあたる作品なのでシナリオライターを目指して若いころから温めてきたらしい様々な思いが映画の前半に盛り込んである。好きだった女の子への思いであり、気になる友人がいて、郷里の日常があり、憧れの対象としての東京があり、そこへの脱出の手段としての受験がある。このあたり監督の昔の日記を読んでいるような興味はあるが、話の展開はゆったり気味だ。


この映画は後半に入ってテンポが速くなり、面白くなる。駆け落ちした異国で病没したモノクロームの写真の女性と、その後生きる気力を失くしたようにやはり早世したその恋人をめぐる物語が展開する。死後であっても一緒になりたいという逝った者たちの「想い」が若い主人公たちに乗り移って「悔いのない人生を生きろ」と呼びかける。ちょうど「ゆめのかよいじ」で二人のヒロインが共通して愛したピアノ曲が彼岸と此岸に立つ者たちの想いをつないだように、「強く人を想う気持ち」を共有する主人公たちにしか見えない形でこのファンタジーが成立する。この謎解きをめぐってのテンポの良さが快く、熱い気持ちが伝わる爽やかな青春映画だ。


この映画が気になった人は五藤監督の作品「スターティング・オーヴァー」も観るべきだろう。2013年に公開されたこちらの作品は「モノクロームの少女」の上京篇だと思っている。シナリオライター出身の五藤監督が自らの青春と旅立ちを振り返っている感じの強いこれらの作品を観て、黒木和雄監督の傑作「祭りの準備」(1975年)を思い出した。こちらは中島丈博氏が自身の郷里である高知県中村を舞台にして脚本を書いたものだ。土佐の海を描いた映画と越後の山河を描いた映画の違いはあるが熱い気持ちに共通するものがある。もう10年くらい経った時に五藤監督に、一連の故郷映画を上京篇まで加えて、リメイクしてもらうとどういうことになるだろかと想像するのも楽しい。


五藤利弘監督 「ゆめのかよいじ」 刈谷田川の石積みの映画  2016年

2014年の秋から2015年にかけて郷里である新潟県長岡市出身の五藤利弘監督の作品が各地で公開された。10月に「愛こそはすべて」、11月に「花蓮~かれん~」、「スターティング・オーヴァー」、12月に「ゆめはるか」。2015年11月にはロケ地上映された「花蓮~かれん~」を霞ケ浦の畔にある行方市まで観に行く機会があった。この監督の作品で一番好きな作品「ゆめのかよいじ」(2013年公開)に主演した石橋杏奈の最近の活躍がめざましい。

映画「ゆめのかよいじ」で印象に残るのが長岡市の栃尾を流れる刈谷田川の河原で平たい石を卒塔婆のように積みあげる「石積み」が登場する映像だ。この川はこちら岸の世界とあちら岸の世界を隔てるものの象徴でもある。この石積みの風習は三途の川の伝説として東日本に広く伝わっているようだ。親より早く死んだ子が向こう岸に渡らせてもらえないのは親が来るまで待てということなのだろう。川原で石を積むことが義務つけられる。その早逝した子供たちの霊も、お盆には親元に戻ってくる。石積みの義務を忘れてゆっくりできるように、その子たちに代わって地元の人が石を積むのがこの風習の意味のようだ。哀しくてやさしい風習だ。

この映画は彼岸に住む人と現在を生きている人との交流をテーマにした物語を原作にして、長岡市の山河を舞台に撮影された。河原と栃尾の山の緑が繰り返し出てくる美しい映像にこの「彼岸」のイメージが見事に表現されている。「人を想う気持ち」というのはどこかラジオの周波数を連想させるものがある。この映画のヒロインは亡くなった父を慕う気持ちから「心が風邪をひきそう」になった高校生。父と過ごした時間を思い出すたびに父の好きだったピアノの曲が流れる。このヒロインからとても強く発信されている「想い」が60年前の出来事につながって行く物語になっている。


第二のヒロインともいうべきもう一人の少女が登場する。このヒロインの設定が石積みの風習と重なるようになっているのがこの映画の深いところだ。ここからはまったく個人的な感想になってしまうが、この少女の着ているセーラー服を見た時に言いようのない感情を覚えた。わたしは栃尾市 (現在は長岡市栃尾地区)で生まれ、隣の見附市で育ち、中学、高校と長岡市に通ったので、刈谷田川には深い思い入れがある。60年前と言えばわたしが生まれる少し前の頃だ。その頃わたしの母がまだ女学生だった頃の数葉の写真にはほとんど同じようなセーラー服姿が写っている。


この映画の舞台は刈谷田川の流れの中でもかなり山に近い。栃尾はその昔に景虎と名乗っていた上杉謙信が幼少時代を過ごした山城の城下町である。わたしの母の生家はずっと下流で隣の見附市との境になる鄙びた村だ。その村で「石積み」の風習を見たことはないが、「灯篭流し」という風習がある。お盆に彼岸からやってくる祖霊を家にお迎えした後で、途に迷わず帰っていただくために灯篭を点けて川に流す風習だ。刈谷田川の流域はそういう風に人々が祖先の霊を敬い、想いを寄せてきた土地である。この映画はそういう土地の持つ雰囲気を捉えている。

彼岸と此岸の境界で強い思いを抱き続けるものを描いた邦画の名作と言えば溝口健二監督の「雨月物語」(1953年)と小林正樹監督の「怪談」(1965年)がある。「浅茅が宿」で京に上った夫を待ち続けた新珠三千代演じる妻の想い。「耳無し芳一」で琵琶法師の奏でる音色に聞きほれて法師を迎えにくる丹波哲郎演じる武士の想い。そういう日本映画の伝統に脈々と流れる「想う力」という普遍的なテーマが若手の俳優さんたちを得て「ゆめのかよいじ」の中で表現されている。

五藤監督は他の作品「スターティング・オーバー」を作品のタイトルにしているくらいのビートルズマニアだが、この映画ではドビュッシーの「夢」というピアノ曲を登場させている。失われた人への想い、地震で失われた故郷の景観への想い、繊維の町として栄華を誇った栃尾が時を経て失ったものへの想い、戊辰戦争で敗走してきた長岡藩士たちが森立峠を越えて栃尾に入る時に、故郷を振り返って眺めた想い。失われたたくさんの夢に捧げられた鎮魂の映画である。映画の終盤に
多くの人々が被災した中越地震の場面を登場させたことも、川原に無数に石積みが見える冒頭の場面につながっている。


2014年10月19日日曜日

五藤利弘監督「フェルメールの憂鬱」 モロ師岡の魅力

2014年10月の「愛こそはすべて」の劇場公開に続いて、12月には新作「ゆめはるか」の公開などでメディアで取り上げられている五藤利弘監督はわたしの郷里である新潟県長岡市の出身だ。11月の初めの長岡アジア映画祭で同監督の作品「花蓮~かれん~」と「スターティング・オーヴァー」(栃尾映画の上京篇)が上映予定となっている。この監督の活躍が目立つ秋だ。

五藤監督の2012年の映画「フェルメールの憂鬱」を観る機会があった。映画はバー「フェルメール」でモロ師岡演じるマスターと森下悠里演じるヒロインの会話から始まる。深夜のバーに托鉢僧がいて、ゲイのオジサンを演じる村野武範がいて、パソコンおたくのニートがいる。しばらくすると大桃美代子も登場する。2009年の「モノクロームの少女」に出演した五藤組の俳優陣の総登場だ。これは面白そうだ。

場面が変わるとヒロインの寝起きの場面でグラビアアイドル森下のショットが続く。それから若いお兄さんが登場する。どこかで見た顔だ。セリフを聞いているうちに「あれ、ヒロシだ」と気がつく。そこからヒロシ演じるリストラ男とヒロインを中心に隠された名画の発掘の話が展開する。この部分を取り上げてこの映画は「フェルメールの絵をめぐるドタバタ・コメディ」というコピーで紹介されている。名画の発掘が失敗に終わったあたりからこの映画の本当の物語が展開する。

実はこの映画はドタバタ喜劇だけではない。「ゆめのかよいじ」から一貫する五藤ワールド路線の映画でもある。話の筋はさておき、この映画の本当の主人公は「フェルメール」という酒場なのだ。青春時代にむやみと深夜まで居続けた酒場のことを思い出した。五木寛之の「こがね虫たちの夜」に出てくるような、「深夜食堂」で小林薫がカウンターにいるような店だ。そういう店が白山にもあった。そういう深夜の酒場のマスターの雰囲気をモロ師岡がとても良く出している。モロ師岡という名前を知らない人もいるかも知れないが、多くの映画やドラマに登場する名優だ。新しいところでは「半沢直樹」がある。大阪西支店で半沢課長を支える職人気質の係長を演じた人だ。NHK大河への出演も多い。もっと遡ると1998年の向田邦子ドラマ「終わりのない童話」にも刑事役で出演している。「フェルメールの憂鬱」はドタバタを装ってはいるが、当代きっての助演男優を主役にした渋い映画だ。

2014年10月15日水曜日

ミハイル・カザコフ監督「パクロフスキー門」 モスクワの秋の映画

1982年のこの映画はとてもほのぼのした味がある。スコピエで仕事をしていた時に本部から出張してきたロシア人のナターシャと映画の話になった。その時勧められた映画の一つだ。全編を通じて流れるロシアのシンガーソングライター、ブラト・オクジャワの挿入歌が良い。モスクワの中心にあるアルバート通りの歌だ。

主人公のコスチクが地方からモスクワに出てきて青春時代を過ごした共同アパートで出会った人たちを回想する物語である。ロシアを代表する名優オレク・メンシコフが主人公を演じている。メンシコフの主演作は「シベリアの理髪師」「太陽に灼かれて」「東と西」「ドクトル・ジバゴ」など数多い。この映画の中ではまだ少しにやけたお兄ちゃんで後年の威風堂々たる姿を感じさせるものはないが、感じの良い青年の役を好演している。


共同アパートの住人でユニークなのが出版社に勤めるレフという男だ。とても気が良くて、外国の詩が好きな愛すべき男なのだが一つだけ欠点がある。マイペースで自分の世界に住んでいるので周りの空気が読めないことだ。愛想をつかした奥さんは今は他の男と暮らしている。


このマイペース男の元奥さんであるマルガリータおばさんがすごい。太っ腹で頼りがいがあってロシアの肝っ玉母さんだ。自分の世界に住んでいる元夫に愛想をつかして、ドイツ系のもっとさっぱりしたオジサンと今は暮らしている。面白いのはこの別れた夫婦が同じ共同アパートに住んでいるのみならず、この元奥さんは何かと元夫のレフの生活に干渉してくることだ。陽気なドタバタコメディが展開する。


もう一人面白いアパートの住人がいる。ステージで歌とおしゃべりを披露するコメディアンのオジサンだ。機関銃トークが面白い。即興というわけではなく、原稿を書く人は別にいる。このライターとパフォーマーの関係についての描写も面白い。モテ男のコスチクが一目ぼれをして本気の恋をする話やら、元気オジサンのコメディアンが可愛い水泳選手に夢中になる話やら、マイペースのレフが自分と同じくらいトンデル恋人を見つける話やら盛りだくさんだ。


この元夫の新しい恋に気を揉むマルガリータおばさんがすごい。「ダメなあなたのことを愛していた私でさえ無理だったのだから、他の女となんか幸せになれるはずがない。結局不幸になるわ。そんなこと耐えられないから、わたしがあなたを守らなくてはならない」という信念のもとに、元夫の行動に干渉する。困ったものだが、この映画がとても面白いのはこの猛烈マルガリータおばさんのおかげだ。

2014年10月6日月曜日

蔵方政俊監督 映画「Railways  愛を伝えられない大人たちへ」

機中で観る映画というのはこれまでの経験でも良い作品が多い。この三浦友和主演の映画(2011年)もシブイ。42年勤めあげた主人公とその人間関係が抑えた調子で描かれる。先日ご逝去された米倉斉加年さんが先輩として語る。「この先の人生は短いと思うとるじゃろう。長いぞ。これからの時間は」。余貴美子さんが演じた50台半ばの妻は健康診断で腫瘍が見つかった。再検査結果は良性だったが彼女は考える。「このまま死ぬのかと思ったら、こわくなったがよ」。

「わたしも自分の人生を生きてみたいがや」と妻に言われた主人公は考える。「自分にも別の人生があったのだろうか」。主人公にも高校生の頃写真家になりたい夢があった。仁科亜季子さん演じる昔の彼女と偶然再会して酒を飲む。定年を迎える年齢になっても悩みは多い。わずかに残された時間を自宅で過ごしたい老婦人を演じる吉行和子さんが語る。「男なんて夫だと思うとしゃくにさわるし、疲れる。ペットだと思えば良いがよ。」 最近同じようなことを言われた記憶があるのでびっくりした。


2014年10月5日日曜日

Regis Wargnier 監督 「東と西」

1999年のこの映画は名優オレック・メンシコフ、1997年の「ブラザー」で売り出したセルゲイ・ボドロフJrと豪華な男優の二枚看板に加えてフランスからカトリーヌ・ドヌーブが出演した大作だ。映画は1946年のソ連に向かう船の中のパーティーの場面から始まる。主人公のロシア人医師を演ずるメンシコフはフランス人の妻と子を連れて第二次大戦後の祖国の再建に参加するためにロシアに帰還する。妻は夫に寄り添い一家の幸福を信じて異国への移住について来た。

帰還船がソ連の港に到着するとノスタルジックで甘美な夢は打ち砕かれる。船がソ連に到着した途端に、手のひらを返したような当局の仕打ちで技術者や医師や知識人たちは自分たちが間違った選択をしたことに気がつく。しかしもう打つ手はない。フランス人の妻は話が違うとヒステリー状態を経て絶望していく。主人公の医師は家族の身の安全を図るためには、当局のやり方に従う他はないことを思い知らされる。意気地なしと腹を立てた妻の心は夫から離れ、その国に同じように絶望し脱出を夢見る若い青年に気持ちが移って行く。この青年を演ずるボドロフJrがとてもいい味を出している。この将来を期待された若い俳優は残念ながら2002年に撮影中の雪崩に巻込まれて亡くなった。


セルゲイ・ボドロフJrとメンシコフは1996年の「コーカサスの虜」でも共演している。監督はお父さんのセルゲイ・ボドロフ。この早逝した俳優が生きていればメンシコフとの共演でいくつもの名作を作ったはずだ。このコンビの感じの良さはちょうどニキータ・ミハルコフとオレック・メンシコフがさまざまな話題作で繰り返し共演している雰囲気に似ている。セルゲイ・ボドロフJrのご冥福をお祈りする。


オレク・ヤンコフスキー、ミハイル・アグラノヴィッチ監督 「ここに来て わたしを見て」

タシケントに住んでいた頃に「目がさめたらロシア語がすらすらわかるようになってたらいいな」といつも考えていた。仕事は英語でこなしていたが、お客さんに会ったり、会議に出たりした時に自分一人だけが通訳を介する状態は楽しくない。なかなか都合良く奇跡は起きない。その内「ロシアの歌をCDで聴いて、ロシアの映画をDVDで観ていれば、いつか奇跡は起こる」と信じることにした。

ロシアの歌は好きなものを厳選して、先生とのレッスンで逐語訳を用意した。ロシア映画についてもタイプしてくれる人を探して映画のスクリプトを作った。タイピングの出来を先生がチェックしてくれた。かなり時間のかかる作業だったが、好きな歌とかメロドラマの場合には話の筋を理解したいという気持ちが強くてけっこう続いた。12本くらいの映画のスクリプトができた頃に、映画によっては英語ないし日本語の字幕がついているDVDが出回っていることに気がついた。それからはDVDショップがあると字幕付きのを探した。


この2001年の作品はたまたま見つけた。ある日「運命の皮肉」の英語字幕版を見つけた時に、そのDVDの裏側に入っていた作品だ。旧ソ連圏では今でも大晦日に鑑賞される「運命の皮肉」とペアになっていたこの映画は、やはり大晦日に起きる物語だった。とても心温まる作品だ。それからしばらくしてこの作品に主演しているオレック・ヤンコフスキーとイリーナ・クプチェンコのどちらもがとても有名な俳優であることを知った。


ヤンコフスキーは2006年のロシア版「ドクトル・ジバゴ」でも重要な敵役のコマロフスキーを魅力的に演じている。ヒロインのラーラがまだ若い頃に何故この男に魅かれ、銃撃まで試みるかを理解するうえでこれはとても重要な点だ。ロシア版「ドクトル・ジバゴ」にはハリウッド版よりも優れた点がいくつもあるが、この敵役を天下の名優に演じさせたところが物語の説得力を増した最大の理由だ。

Oxana Bychkova 監督 「ピーターFM」

ロシア語圏の国に住んだ時に、映画を観ていればきっと言葉も上達するだろうという淡い期待でいくつかの作品を観始めた。「運命の皮肉」という映画がとても好きになった。その後DVDショップで「どんな映画を探しているのですか?」と聞かれると「運命の皮肉と同じくらいロマンチックで面白いのはありますか?」と答えた。そうして教えてもらった映画の一つが「ピーターFM」だ。

しばらく経って英語字幕版を見つけて観直すまで、どこまで理解していたのか怪しいものだが、話の展開は理解できた。好きな映画というのは自分で適当に空想して細部を補ってしまうから言葉の壁を乗り越える時も稀にはある。映画は総合芸術だから音楽とか場面とか俳優の表情とかで理解できる情報もたくさんある。

そういう空想的な鑑賞の結果としてこの映画にはまってしまった。ヒロインのマーシャはサンクトペテルブルグ(ピーター)のラジオ局の人気DJで、感じのいい声と語りでファンに支持されている。彼女には学校の時からのボーイフレンドがいる。お金持ちでハンサムな彼と婚約しているのだが、何故か気持ちが弾まない。一方で建築家の卵のマキシム君は仕事中に地元局のFM放送を聴くのが楽しみだ。素敵なガールフレンドがいてすべては順調に進んでいたはずだったが、彼女は他の男が好きになり出て行ってしまう。

そんなある日マーシャが落とした携帯をマキシムが拾う。何度もすれ違いが重なってマキシムはマーシャに携帯を返すことができない。携帯で様々なことを話し合っているうちに、恋が芽生える。ようやくハッピイエンドかと思うと、二人をつなぐ唯一の絆である携帯が河に落ちてしまう。他には連絡の仕方も知らない。。。さあどうなるのか?この映画とても良い。

ニキータ・ミハルコフ監督 「シベリアの理髪師」

エコノミストの野口悠紀雄さんが鉄道と人々の出会いについて書いたエッセイの中に1998年のロシア映画「シベリアの理髪師」の話が出てくる。「主人公とヒロインが最初に出会うのも、列車の中だ。この場面は、明らかに「アンナ・カレーニナ」を意識している」という指摘がなされている。ハリウッド版の映画の記憶がおぼろげだが、自由で意志の強いヒロインが悲しい恋をするという映画の雰囲気がよく似ている。

ニキータ・ミハルコフ監督は、若い頃から俳優として活躍した人で、この映画にもロシア皇帝役で出演している。威風堂々とした人で、エリダル・リャザノフ監督の名画「持参金のない娘」に主演した時の2枚目ぶりを思い出した。この映画は「セビリアの理髪師」をもじった題名だけでなく、映画全体にモーツァルトへの敬意が込められている。映画の題名はシベリアの森林伐採機の発明をめぐる話であること、ミハルコフ監督と何度も共演している名優オレク・メンシコフが演じる若い近衛兵がシベリアに流刑となる話であることなどを示していて面白い。

ヒロインと主人公が列車の中で出会う場面がユーモアたっぷりだ。ここでメンシコフはヒロインにモーツアルトのオペラから得意ののどを披露する。悲恋物語のはずなのに笑える場面がたくさんある。ヒロインが流刑になった近衛兵を探し回り、とうとう探し当てる。そこで新たな家庭を築いているメンシコフを見て身を引くところはソフィア・ローレンの「ひまわり」を連想させる。結ばれなかった二人には実は子供ができていた。この子が青年となり、軍隊の訓練でしぼられてもモーツアルトへの尊敬を貫く。この訓練の場面は「愛と青春の旅立ち」を連想した。遊び心がいっぱいの映画だ。

2012年に仕事でシベリアの街クラスノヤルスクを訪れた時に、同僚たちと食事をしながら、この映画の話になった。この辺りで撮影されていたからだ。撮影当時のことを覚えている人がいて話が盛り上がった。クラスノヤルスクはエニセイ河のほとりにある。

ニキータ・ミハルコフ監督「太陽に灼かれて」

この映画は名優でもあるミハルコフ監督の1994年の作品だ。アカデミー賞最優秀外国語映画賞とカンヌ映画祭審査員特別グランプリ賞を受賞した。

ニキータ・ミハルコフとオレック・メンシコフというロシアを代表する二人の俳優が真っ向からぶつかりあう映画で、見応えがある。草原を戦車隊がやってくるのをミハルコフ演じる休暇中のコトフ大佐が止める場面、季節は夏でテラスでくつろぐコトフの家族と友人たちの場面、10年ぶりに舞い戻ってきたメンシコフ演じるピアニストが今はコトフ大佐の妻となっているかつての恋人マルーシャと再会する場面。どれもすばらしい。

このとてつもなく美しい田園風景が延々と続く映画はいったい何の物語なのか?やがて隠されていた様々な秘密が解き明かされていく。圧倒的に美しく、重苦しい映画でもある。ロンドンでも東京でもこの物語は舞台化された。話が複雑なので観るたびに新しく気がつくことがある。文句なしの傑作だ。

パヴェル・チュフライ監督「ヴェラの運転手」

「ヴェラの運転手」はチュフライ監督の2004年の作品だ。映画はモスクワの場面から始まるが、物語はほとんどクリミア半島のセヴァストポリで展開する。ロシアとクリミアの関係を理解するうえでもこの映画は興味深い。軍港都市セヴァストポリにはロシア連邦の海軍基地が現在も存在し、2045年までウクライナからの租借地となっていた。

この映画の主人公ヴィクターを若い頃のトム・クルーズみたいなさわやかな2枚目が演じている。映画は1962年ごろのフルシチョフ時代の物語だ。映画の冒頭に流れるイタリアの歌「クアンド・クアンド・クアンド」が世界的に流行ったのは1961年頃からだそうだ。ソ連の「雪解け」時代を象徴するかのように若くて純朴なこの兵士は、用事でクレムリンに出かけてきたロシア海軍の将軍に気に入られてセヴァストポリ勤務となる。将軍には足の悪い年頃の娘ヴェラがいる。母を亡くしたこの娘は情緒不安定気味な上に、妊娠している。将軍はこのロシア風トム・クルーズに娘を託そうとする。青年にとっては美人だし、将軍の娘だし悪くない話だ。


映画は雪解け時代の明るさの一方で、KGBの暗躍を描く。クレムリンにとって都合の悪い者たちはたとえ将軍と言えども処分されることになる。ただKGBは将軍が隠し持つある事件についての証拠を奪い隠滅するまでは将軍に手を出せない。


1997年の「パパって何?」に続いての名監督チュフライの作品だが、以上のような骨太の話を縦糸にしながら、若者の出世の夢、二人の娘の間での葛藤、やがて心を開いた娘の純愛と盛りだくさんの内容になっている。前半の息詰まるような展開に比べると、話が大きすぎてどう終わっていいのかやや迷った感じはする。面白い佳作だ。

パベル・チュフライ監督「パパって何?」

パベル・チュフライ監督の1997年の作品。汽車の中で母子と男が出会う場面から始まって早いテンポで話が進む。原題は「泥棒」。邦題の「パパって何?」と言うのはピンとこない。戦後のどさくさの中でめぐりあった戦争帰りの粋な二枚目はとてもかっこ良くて、とんでもない奴だった。アパートでの宴会の場面。サーカスの場面。映像も音楽も美しい。

戦後のどさくさの時代の話だから乱暴な言葉が飛び交っているらしいが、ロシア語は意味をとるのが精いっぱいでニュアンスまではわからない。タシケントにいる時に週に3回家の片付けとか手伝ってくれていたロシア人のオーリャ叔母さんは「こんな野蛮な映画を観てどうするの」と本気で心配してくれていた。オーリャさん、はっきり言わせてもらうとこれは名作だ。

ゲオルギ・ダネリヤ監督「秋のマラソン」

タシケントで1979年の映画「秋のマラソン」をみてロシア映画の魅力に取りつかれるようになった。グルジア系ロシア人のゲオルギ・ダネリヤ監督が、同じくグルジア系の俳優オレック・バシラシヴィリを主役にして作った作品だ。

人が良くてちょっと気が弱くて「Noと言えない」中年男のミッド・ライフ・クライシスが描かれている。 秋のサンクト・ペテルブルグの風景が美しい。人生の秋の物語であり、いくつもの夢から夢へのマラソンの物語でもある。この映画の中で時計をセットした主人公はあちらからこちらへと駆け回るのに忙しい。知的な仕事についていてちょっと二枚目だ。優しい性格だからいろいろな人に頼りにされる。やがてあちこちに良い顔をしすぎて困ったことになる。生きていくということは選択することなのだが、この主人公はそれが苦手だ。

主人公を演じたバシラシヴィリは名匠エリダル・リャザノフの作品にも登場する。1977年の「職場の恋」では重要な脇役を演じた。1982年の「二人の駅」では、主役の二枚目を演じている。その時ヒロインをめぐって対立する敵役を演じたのがニキータ・ミハルコフだった。
1963年に若い日のニキータ・ミハルコフが主演した「モスクワを歩く」もダネリヤ監督の作品だ。

エリダル・リャザノフ監督「持参金のない娘」 マリーナのジャムは甘美な味がする

ロシアNOW7月17日号の「電気梨、Hな苺、苦悩の玉葱」というロシアの野菜と果物の名前にまつわるイメージについての記事が面白かった。Hな苺って何だろう?最初に思い出したのは「カリンカ」という有名な歌だ。1994年に西シベリアの石油ガス田のリハビリ・プロジェクトのモニタリングで初めてロシアを訪れた。モスクワで仏の技術者三人と合流して晩飯を食べることになった。音楽のおじさんたちがやってきてリクエストに応えてくれた。仏エンジニアのリクエストで始まった「カリンカ」はカリーナ(がまずみ)の意味だが女性の名前でもある。名前の終わりを「カ」とあ行にすると「カリーナちゃん」になる。この歌には苺類(ベリー)の総称「ヤゴダ」もその一種である「マリーナ」も出てくる。マリーナは木苺(ラズベリー)とも蝦夷苺とも訳される。この名前の女性は多い。タシケントの同僚はマリーナだったし、ビシュケクの同僚はカリーナだった。繰り返しの多い「カリンカ」の歌を聴いていると、これは女性に対する呼びかけの歌に違いないことがわかる。

中央アジアに住んで砂糖が生活必需品であることに気がついた。2010年のキルギス政変が4月の始めに起きると治安維持を理由にお隣のカザクスタンは7月まで国境を閉鎖した。カザクの中心都市アルマーティからキルギスの首都ビシュケクまでは車で4時間くらいだ。様々な物資がカザクからキルギスに輸入されている。キルギスからカザクへは果物や中国、トルコからの量産品の衣類が輸出される。この国境閉鎖でとても困ったのが夏場に砂糖が不足したことだ。生のマリーナはそのままでは保存がきかないが砂糖漬けのジャムにしてしまえば一年を通じて食べられる。冷蔵庫も冷凍庫もない時代からの生活の知恵であり、今でも厳しい冬を乗り切るために欠かせない食品だ。


「Hな苺」からの連想でマリーナを使った色っぽい場面が出てくる映画を思い出した。ニキータ・ミハルコフの「残酷なロマンス」(邦題:「持参金のない娘」)だ。この映画の英語タイトルはcruel romanceと直訳。邦訳はわかり易いがちょっと味気ないと思ったら原作のタイトルの直訳だった。この映画ではミハルコフ監督自身が白馬に乗って登場する粋な二枚目を演じている。美人で歌の上手いヒロインの気を引いてさんざんその気にさせたところで、彼のビジネスが破綻し自慢だった豪華客船を売り渡すはめになる。いろいろな騒動があって哀しい結末となる。


この映画の始めの方でヒロインの誕生日の場面がある。没落しつつある娘の家にとっては裕福な嫁入り先探しの日でもあり、リッチな招待客の男たちに娘のための高価プレゼントをねだる大事な日だ。飲んでさわぐ他の客たちを避けてキッチンの隅にいる粋な二枚目のところにヒロインがやってくる。手に持っているいるのがマリーナの皿。「召し上がる」「ありがとう」となった後で男のひげにマリーナがついてしまった。娘が「ちょっと待って」と指で取る。さりげなくその手を抑えた男はマリーナのついた指をぱくっと舐めてしまう。とても官能的な場面だ。


エリダル・リャザノフ監督 「二人の駅」

名匠リャザノフ監督の1982年の作品。話の筋はかなり凝っていて長旅の途中の鉄道駅で食事をした主人公役を演じるオレック・バシラシヴィリとウェイトレスのヒロインを演じるリュドミラ・グルチェンコの掛け合い漫才のような喧嘩の場面から映画は始まる。この会話劇の面白さは同監督の傑作「運命の皮肉」と共通している。このヒロインがとても魅力的だ。この二人が喧嘩している内に汽車は主人公をこの駅に残して出発してしまう。

主人公の旅人にはは先を急ぐ大変な事情があった。気の毒になった気の良いヒロインは一転して彼にやさしくなる。そこにニキータ・ミハルコフ演じる長距離列車の乗務員でヒロインの恋人が登場する。主人公が中央アジアからの列車が運んできたメロンのたたき売りをする場面も面白い。他の映画ではいつも堂々たる2枚目を演じるミハルコフが、バシラシヴィリの引き立て役に徹している。

前半・後半の構成で、後半の方は徹底的なメロドラマ。妻の交通事故の濡れ衣をかぶって服役することになる男は実はピアニストでとてもかっこいい奴であることがわかる。ヒロインが服役中の男に会いに行く場面も美しい。
映画の中で1969年のハリウッド映画「明日に向かって撃て」のテーマ曲だった「雨に濡れても」(バート・バカラック)が何度も使われている。ヒロインを演じたリュドミラ・グルチェンコは歌手としても人気があったそうだ。


エリダル・リャザノフ監督 「運命の皮肉」

ロシア映画「運命の皮肉」はリャザノフ監督の1975年の作品だ。この映画はロシアの冬の楽しみとしてのサウナの場面が重要な意味を持つ。大晦日の午後に男友だち4人がサウナに集まりビールを飲んで旧交を温める。主人公の婚約の話を聞いた友だちがヴォトカの瓶を取り出し、皆で正体のなくなるまで酔っぱらってしまうことから話が展開する。それで映画の原題は「運命の皮肉 良い湯気を!」というのだが、そのまま訳してもしっくりしないので省略した。

大晦日に様々な国でTV放映されることで有名なこの映画には、いくつもの詩が挿入歌として登場する。中年にさしかかり、それぞれ結婚を控えた男と女が、運命の悪戯のように唐突にめぐり合う。ドタバタ騒ぎの後でお互いに好意を感じてしまう。女は言う。「二人とも少し頭がおかしくなっただけよ。この大晦日が終われば、何もかも元に戻るわ」。ギターを手にした女が歌う場面が渋い。この場面はロシアの人気歌手アラ・ブガチョヴァの吹き替えだ。マリーナ・ツヴェタエヴァの詩に曲をつけたものだ。

 くもった鏡を覗いて
 靄のかかった夢の中から探りあてたい
 あなたの道はどこへ続くのか
 あなたはどこへ錨を下ろすのか
 船のマストが見える  
 デッキの上にはあなたがいる
 連なる大地と煙を上げて走る列車
 黄昏時の憂いに沈んだあなたがいる
 夜露に濡れた黄昏の大地が見える
 その上には渡がらすたち
 あなたに幸あれと祈る
 あなたがこの世界のどこにいようとも
      (刈谷田川の夢 訳)

こういう詩に触れてみて面白いのは日本人の感性に似ているところがあることだ。荒井由美は70年代に彗星のようにデビューしてすぐのアルバムの中で「魔法の鏡を持ってたら、あなたの暮らし映してみたい、もしもブルーにしていたなら、偶然そうに電話をするわ」と歌った。大川栄策が歌った「さざんかの宿」はもっとそのままだ。「くもり硝子を手でふいて、あなた明日が見えますか」。

どんなパートナーといつめぐり合うのか?自分の行く道の果てには何があるのか?自分が今選ぼうとしているその人は本当に自分の運命の人なのか?映画「運命の皮肉」の中にはまだまだたくさんの名曲と詩が挿入されている。この映画が旧ソ連圏で人々に愛され、繰り返し鑑賞されるのにはそれだけの理由と深さがある。多くの暗示に富む素晴らしい映画だ。


2014年10月4日土曜日

滝田洋二郎監督「僕らはみんな生きている」

この映画は1999年の春にウズベキスタンに赴任するしばらく前に観たので思い入れの強い作品だ。この年の4月に赴任する前の3月初めに、家探しやら引き継ぎやらで初めてこの国の首都タシケントを訪問した。タシケント市内の4か所で同時爆弾テロがあったのはその直前の2月のことだった。映画の中にも爆弾騒ぎが出てくる。映画の舞台となっている国の名前「タルキスタン」もお隣のタジキスタンとトルクメニスタンを足して2で割ったような名前だ。

当時はまだVHSの時代だった。前任者の反応にも興味があったのでこの映画を持参すると、タシケント在住の商社マンの皆さんに回覧されたみたいでなかなか返ってこなかった。観たい気持ちはわかる。この映画のキャストが素晴らしい。真田広之、山崎努、岸部一徳、嶋田久作それぞれ絶妙な熱演だ。東京から橋の建設のコンペの応援にきた若手のやり手設計者を真田広之が演じた。のんびりしたペースとのらりくらりと嘘をつく現地側の対応にしびれをきらしたこの主人公は「ここは発展途上国ではない!後退途上国だ!」と叫ぶ。しぶい現地所長を山崎努が演じた。すごくクールでシニカルなこの所長は実は裏で政府側と通じている。彼の家族は長い現地駐在の間に崩壊した。

エビ輸入専門商社の駐在員を演じたベンガルもすごい。この駐在員は家族思いで日本から届くビデオレターを楽しみにしている。今度こそ帰れるはずだと思っている彼のもとに一通のテレックス電が入る。後任が見つからないので任期延長という短い便りだった。放心し、怒りにかられた彼は内戦の始まった路上で「バカヤロー」と叫んでいるうちに流れ弾で殺されてしまう。生き残った4人は銃撃戦の繰り広げられた通りを抜けて空港に向かうために叫ぶ。「俺たちは日本のビジネスマンだ。殺さないでくれ」。殺し合いの中でそれに耳を傾ける兵士はいない。銃弾の雨は飛んでくる。この映画を観て平気でいられる駐在員は少ないだろう。

高校同窓の友人が原作漫画 (一色伸幸原作、山本直樹作画)を貸してくれた。全4巻を読んだ。映画の名場面が甦ってきて感動する一方で、違和感もある。長い物語を映画化するにあたってテンポが速くなるのはいつものことだが、2点について原作漫画と映画は決定的に違う。一つはこの物語全体を通じて重要な役割を果たすセーナの設定だ。映画では男性になっている。当初は原作通りに役を作る予定だったがイメージにふさわしい女優さんが見つからなかったとされている。もう一つはこの物語の結末である。この原作漫画と映画のどちらにも味がある。
 

「深夜食堂」「夫婦善哉」 小林薫の魅力

好きな俳優で健さんの次に思い浮かぶのは小林薫だ。この人は田中裕子といくつかの重要な共演をしている。「夫婦善哉」は森繁久弥と淡島千景のコンビが有名だが、小林・田中コンビによるドラマ版もすばらしい。久世光彦演出の向田邦子ドラマシリーズでの共演もとても印象的だった。

2012年のドラマ「深夜食堂」の親父役でもいい味を出している。この人はその昔唐十郎率いる状況劇場の看板俳優として活躍した時期がある。この人の退団後のことだが、新宿花園神社でのテント公演を見に行ったことがある。そのすぐ近くが「深夜食堂」の物語の舞台だ。

侯孝賢監督「悲情城市」

今のチームに赴任する前の2011年の秋に、台北に出張した。2日間の用事が無事に済んで、台北から車で一時間ほどの基隆、九分(にんべんがつく)という街を案内してもらった。1989年にヴェネチア映画祭でグランプリをとった侯孝賢監督の台湾映画「悲情城市」の舞台となった街だ。映画の舞台となった旧鉱山の町は港町の基隆から山に登っていく坂の上にあり眺望が美しい。とても入り組んだ地形になっている。この映画のテーマである第二次大戦後の混乱期に、政治的な理由で潜伏するのに好都合の地形だ。

この映画に主演した香港のスター、トニー・レオンが台湾語を話せなかったので、口のきけない主人公というシナリオが作られたそうだ。この映画は日本の台湾支配が終り、新たに国民党の支配に移行する内部対立の時代を描いている。言葉に頼らずにインパクトの強い場面をつないだすばらしい映画だ。トニー・レオンにとってこの映画は出世作となり、以後の話題作への出演が続く。2000年の「花様年華」(in the mood for love) は世界的にヒットした。2005年の「ラスト・コーション」もすごい映画だ。


九分は日本情緒の残る街で懐かしい気がした。それは同時に植民地支配の名残りでもある。1930 年のセデック族による抵抗が日本軍によって鎮圧された「霧社事件」を描いた「セデック・パレ」という映画が2011年に台湾で大ヒットした。台北を訪れた時に、この映画のポスターを街で見かけた。日本には2013年の4月に公開されている。この映画はいつか見てみたい。台湾に親日家が多いのは仕事でも感じるが、その一方で植民地時代の記憶が風化していないのも事実のような気がする。






エミール・クストリッツァ監督 「アンダーグラウンド」

バルカン半島の国マケドニアに住んでいた時にこの映画のDVDを見つけたので買っておいた。数年経ってから170分の大作を観た。第一部が第二次大戦下の対独パルチザン時代、第二部が冷戦下のユーゴ時代、第三部がユーゴ崩壊後の内戦時代。音楽とドタバタと色っぽさが満載で魅力たっぷりの映画だ。映画の冒頭で爆撃されている動物園の飼育係イヴァンと猿の組み合わせが狂言回し風に3つの話をつなぐ。マルコとナタリアの恋の物語なのかと思うと、「黒」のニックネームで呼ばれるとんでもない男ペータも入って三つ巴の大騒ぎだ。可愛いしたたか女優のナタリアをナチの将校から取り返すために奮闘するこのペータは、いつの間にかパルチザンの英雄となる。親友マルコとナタリアは、ナチに囚われ拷問されるペータを取り戻すがその甲斐もなくペータは命を落とす。

第二部では戦争が終わったはずなのに地下に立てこもって避難生活を続けながら、抗戦のために武器を造り続ける集団がいる。非業の死を遂げたはずのペータの名声を利用して、マルコはチトーの側近として表の世界で地位とナタリアの両方を手に入れた。地下で生活する集団による密造兵器の売買で活動資金を作っている。マルコはこのビジネスを継続するために外の世界では戦争が続いていることに信じさせるため、インチキ映像と音楽を流す。ここで使われるのがドイツ軍の侵攻を演出するための「リリー・マルレーン」。ナタリアは罪の意識からアル中になる。マルコは叫ぶ「それもこれもお前を愛しているからじゃないか」。やがてこの嘘はばれる。ペータは外の世界に飛び出して行き、錯乱の中で息子を死なせ、自分も命を落とす。

第三部では東西冷戦が終わり、ユーゴ内戦が始まっている。その一隊を率いるのは死んだはずなのに生きていたペータ。武器商人となって国際手配されているのはマルコとナタリア。マルコの弟イヴァンが居合わせてすべてを知る。怒りに震えた弟は兄のマルコを木で打ち据える。瀕死のマルコとナタリアは内戦の兵士に捕えられる。ペータは知らずに、処刑の命令を出す。ようやくめぐり合えた友達と恋人を殺させてしまったことを知ってペータは嘆く。

話の展開が奇抜で劇中の映画撮影の形で似たような場面も繰り返されるので混乱してしまう。第一部だけでも十分に面白い。第二部は共産主義によるマインド・コントロールの比喩みたいな感じがする。第三話は兄弟殺しのユーゴ内戦の批判だ。第一部でナチの空爆に腹を立てて「俺の街を破壊する奴は誰だろうと許さん」というペータは熱い男だ。彼が「黒」のニックネームで呼ばれるのは知識人であるマルコの表の生活を支える影の男と言う意味もあるだろう。「この映画に終わりはない」というタイトルに続いて、ひょっこりひょうたん島のような場所の場面となり、死んだはずの登場人物たちが勢ぞろいで大騒ぎが続く。バルカン半島の重い歴史をテーマにしていながら、とんでもなく猥雑で、途方もない傑作だ。

2014年10月3日金曜日

ジュゼッペ・トルナトーレ監督「ニュー・シネマ・パラダイス」

ジュゼッペ・トルナトーレというイタリアの監督の「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988年)はとても好きな映画だ。映画大好きのシシリアのトト少年が都会に出て映画監督として身を立てる。故郷を離れて30年経った今でも若い日の恋を失った記憶がほろ苦い。その痛みを思い出さないように故郷を避けて暮らしてきた。その彼が親の葬式で帰郷すると、いろいろな記憶のピースがようやくかみ合うことになる。30年前に引き裂かれるように別れた恋人との故郷での再会。少年時代の映画漬けの日々の記憶との再会。ほろ苦い話だ。全編を通じて音楽と映像が美しい。

映画の前半はとても楽しい。主人公のトト少年は映画が大好きで上映館に入り浸っている。映写技師のおじさんと仲良しになるが、このおじさんには不思議な仕事がある。「ふらちな場面」をフィルムから切り取ってから上映する仕事だ。さまざまな名画のキスシーンがカットされることになる。そういうフィルムの切りくずが散乱している狭い部屋で火事が起きてしまう。目を怪我したおじさんを助けて小さな映写技師助手としてトト少年の映画修行は本格化する。


映画の後半になってすでにトトは青年になっている。多感なトト君は恋をするのだが良いお家のお嬢さんを好きになっても身分違いの壁が高い時代の話だ。ここで一計を案じたのがトトの理解者である目の見えなくなったおじさんだ。こともあろうにこの人は恋路の手伝いをするどころか、決定的な場面で二人の仲を裂いてしまうのだ。トトの才能を愛するおじさんとしてはたかだか田舎のお嬢さんとの幸せよりは、トトに都会に出て映画修行をしてほしいと願ってのことだろう。トトはその期待に見事に応えて映画監督になるのだが、はていったい彼は幸せになれたのだろうか?難しい質問だ。


ジュゼッペ・トルナトーレ監督「鑑定士と顔のない依頼人」

「鑑定士と顔のない依頼人」(2013年)のイタリア語の原題は「最高のオファー」である。英語のタイトルも「the Best Offer」と直訳されている。2013年後半に日本で公開され、週刊誌やブログの映画評が取り上げていた。沢木耕太郎が絶賛している。「2度観ると味わいが変わる映画」と書いていた。すぐアマゾンで注文した。実に面白い。最後のどんでん返しがあるので、結末を知った後で始めからもう一度観たくなる。この主人公に起きたことが果たして幸なのか、不幸なのか2度か3度観て考えたくなるかも知れない。沢木耕太郎の映画評のブログは他のも面白い。

この映画のトルナトーレ監督と映画音楽の名匠エンニオ・モリコーネのコンビは他にも「ニュー・シネマ・パラダイス」と「海の上のピアニスト」を作っている。10年、15年とインターバルをおいて制作した3作品ともがかなり話題になるのは共通のテーマを扱っていることもある。「ニュー・シネマ・パラダイス」のトト少年が30年ぶりに帰郷する。そして彼の生き方に影響を与えた初恋物語の大きなサプライズを知ることになる。「海の上のピアニスト」で観客は主人公の恋の成就を願い応援するが、最後にサプライズを味わう。「鑑定士。。。」では主人公のシブイ生き方に共感を覚え始めた観客は、やはりサプライズで突き放される。突然のようにやってくる人生の選択が3作に共通したテーマだ。もしも別の選択をしていたらどうなったのだろう?2回や3回観たところで答えは出ない。永遠のテーマである。

アレッサンドロ・バリコ 「海の上のピアニスト」と「絹」

VHS時代に送ってもらったままだったジュゼッペ・トルナトーレ監督の「海の上のピアニスト」(1998年)を観た。この監督の映画「鑑定士と顔のない代理人」に感動したので別の作品も観たくなったからだ。VHSの映画はモニターの配線の切り替えが億劫だったので収納箱の奥にしまってあった。この映画は音楽も映像もすばらしい。イタリア語の原題「海の上のピアニストの伝説」が米で「1900の伝説」となるのは、イタリアからの移民船で主人公が生まれたのが1900年だから。20世紀の到来と人々の自由の新天地への憧れがこの映画のテーマにもからんでいる。挿入されるピアノ曲が最高だ。とても気に入ったのでDVDを買った。

「海の上のピアニスト」の原作はイタリアのアレッサンドロ・バリコの小説である。この人の書いた「絹」は白水社ブックスに入っている。2007年に役所広司、中谷美紀など豪華な日本側わき役陣で映画化された。DVDで買ってすぐに観たが今一つだった。幕末の頃に日本を訪れる絹商人の話で、役所広司の演じる役名が大正デモクラシーの総理と同名の「原敬」でどうも気になる。時代的には長岡藩の家老河井継之助だったらもっと自然な感じになるだろう。


小説は面白い。前半は未知の国日本に憧れるイタリア男の話だ。憧れる力、実行する力についてイタリア人の情熱を感じる物語だ。後半になって実はこのストーリー全体を指揮しているのが男の奥さんであることがわかる。この本をとてつもなく強い愛の物語だと感じる人もいるだろうし、「女性の執念」は怖いと思う人もいるだろう。この奥さんはなんと男を幻想で虜にした日本からの謎の人からの手紙まで代作する。刺激的なのか? 怖ろしいのか? その両方か?


「Tin Men」 ボルチモアが舞台のこの映画はほろ苦い

バリー・レヴィンソン監督の映画「Tin Men」の舞台になっているボルチモアは、ワシントンDCとフィラデルフィアを結ぶ鉄道の途中にある。この映画はリチャード・ドレイファスとダニー・デビートのからみがなんとも味があって面白い。映画の題名は二人が省エネ建材の金属板を売るセールスマンであることを示す。この二人のトップ・セールスマンはお互いに自慢のキャディラックがぶつかったことから犬猿の仲になる。

プライドの高い二枚目のドレイファスは口達者なデビートに復讐するために、デビートの奥さんを誘惑しようと言葉巧みに近つく。この映画が壮絶なのはデビートの妻を寝取ったドレイファスが電話をかけて相手を悔しがらせようとするところだ。ところがこの奥さんなかなか粋な女性で、色男は本気で恋に落ちてしまう。お互いに好きになってしまった頃に、彼女にすべてがばれてしまう。男女同権の今の世の中ではとんでもない映画ということになりそうだ。


ダニー・デビートはこのその後人気者になっていろいろな映画に出演するが、まだこの頃はちびでデブでハゲでユニークなキャラクターだった。とんでもなくエネルギッシュだが自己中な夫に無視される女房の役を演じる女優はどんな人だろう。実に渋くて魅力たっぷりなバーバラ・ハーシーという女優さんがこの難しい役を演じている。この女優さんは「ライト・スタッフ」でサム・シェパードの妻の役を演じ、「ハンナとその姉妹」でも三姉妹の一人を演じている魅力的な人だ。


この映画は1987年の作品だ。当時米国東部のフィラデルフィアに住んでいた。列車で3時間くらいのところにあるボルチモアには友達夫婦が住んでいたので冬休みとか春休みに行ったり来たりした。ボルチモアの美術館のマチスのコレクションは素晴らしかった。彼らと一緒に遊びにいったワシントンDCの春の桜も素晴らしかった。この二人はその後別れてしまったので、この映画はこうした思い出の写真と一緒にほろ苦く思い出す。


「グッド・シェパード」 マット・デイモンの魅力

名優ロバート・デニーロが監督し出演もするこの映画はインテリジェンスの世界に興味がある人々からはバイブル的な扱いを受けている。デニーロも出演している「ゴッドファーザー」は極道の世界を舞台にした最高のマネージメントの教科書とも評されている。数々の名作に主演してきたデニーロが、監督としてこれまでの経験と知恵をつぎ込んだ迫力のある映画だ。

主人公を演じるマット・デイモンがとても良い。この人がデカプリオと共演したもう一つの名作「デパーティッド」を観ても明らかだが、そのあたりにいそうな気がするリアリティがすごい。デカプリオのことは嫌いではないが、この人は役より自分の方が目立ってしまう。マット・デイモンの古き良きアメリカ風のどこにでもいそうな雰囲気は貴重だ。


この映画ではアンジェリーナ・ジョリーがマット・デイモンの妻の役で若い頃から老けるまでを好演している。この映画はかなり複雑な諜報活動の教科書でもある一方で、ほろ苦いラブ・ストーリーでもある。なぜほろ苦いのか?誰も決定的に悪いわけではないのに、ボタンの掛け違いでみんなが不幸になってしまう。これもありそうな話だ。


「刑事ジョン・ブック」と「推定無罪」 ハリソン・フォードの魅力

ハリソン・フォードと言えば70年代の「スター・ウォーズ」のソロ船長、80年代の冒険者インディ・ジョーンズ、90年代の愛国者ジャック・ライアンと男の中の男を演じ続けた。次第に渋味を増していった点が高倉健と共通している。この人の主演した作品で好きなものを一本だけ選ぶとすれば1985年のピーター・ウィアー監督「目撃者 刑事ジョン・ブック」だ。1986年から2年間住んだフィラデルフィアが出てくることもあって思い入れが強い。とても美しい作品だ。

ハリソン・フォードが銃撃を受けて故障した車を納屋で修理している場面がある。アミッシュのヒロインが様子を見に来る。車のラジオからこの歌が流れてくる。二人は歌に合わせてステップを踏む。ヒロインを演ずるのは当時売り出し中のケリー・マクギリスだ。映画「トップ・ガン」の超かっこいい教官として覚えている人は多いはずだ。このすてきな二人が何故結ばれて幸せになってはいけないのか?観客の心をぐぐっとつかんで放さないために決まっている。「カサブランカ」も「哀愁」もそういう風に輝き続けている。西部劇の名作「シェーン」を想起するとコメントをくれた人がいる。なるほど。ケリー・マクギリスの目チカラがすごいと指摘した人がいる。鋭い。

ハリソン・フォードはアラン・パクラ監督「推定無罪」(Presumed Innocent, 1990年)にも主演した。この映画の原作者として有名になったのがスコット・トゥローだ。つれあいが当時タイム誌東京支局で働いていた。ヒーレンブラント支局長からサヴィッチシリーズ2作目の「立証責任」(The Burden of Proof)を借りて読んだのもこの頃だ。この作家はシカゴでの検事補としての経験をもとにした作品をたくさん書いた。「訴追期限」(Limitations, 2006年)、「無罪」(Innocent, 2010年)もベストセラーになった。売れっ子作家である現在も法律家としての活動を続けている。


「レッズ」と「アニー・ホール」 ダイアン・キートンについて

「レッズ」は監督・脚本・主演のウォーレン・ベイティの最高傑作だ。「世界を揺るがした十日間」を書いたジャーナリストでコミュニストのジョン・リードとそのパートナーの物語である。ウォーレン・ベイティは若い頃から二枚目俳優でナタリー・ウッドと共演の「草原の輝き」にも主演した。シャーリー・マクレーンの弟でもある。この二本の映画以外にはさほど印象に残るものはない。「レッズ」がこの人をアメリカ映画を代表する俳優にしたと思う。ジョン・リードの恋人役を演じたのがダイアン・キートンだ。この人はジャック・ニコルソン演じる劇作家ユージン・オニールにも愛されるくらい魅力的なのに、いつも自分は何者かという思いを抱えている。「メンドクサイ女」なのだがそれでも愛さずにいられない。そんな微妙な役を若い日のダイアン・キートンが好演している。

ダイアン・キートンにはもう一本「アニー・ホール」という代表作がある。学生時代に見た懐かしい映画だ。1977年のこの映画のカッコよさは抜群で、白いワイシャツと男物のネクタイとベストがとても新鮮だった。ニューヨーカーなる人たちがスカッシュをする場面も初めて見た。実生活でもパートナーだったウディ・アレンとダイアン・キートンが演じる恋人たちの出会いと別れが、実生活と同時進行するようなこの映画はとてもほろ苦い。才気あふれる主人公とかわいいヒロインが出会い恋に落ちる。この神経症的な才気渙発男といつも一緒にいるのがヒロインにとってやがて辛くなる。一度別れた二人が寂しさのあまりふたたび一緒になって、キッチンでロブスターを料理しようとして大騒ぎになる場面はとても美しくて哀しい。


ダイアン・キートンはアニー・ホールで大ブレイクした後、ウディ・アレンと別れてウォーレン・ビーティと恋をした。「レッズ」の迫力は絵空ごとではないからだろう。その後も「ゴッドファーザー」でアル・パチーノの相手役として重要な役柄を演じている。年配の婦人の役をやるようになってからのダイアン・キートンしか知らない人は気の毒だ。とても魅力的な女優だった。